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ことばとは何か

こどものころから文章を書くことが好きだった。

自分の内から生まれてくることばが書かれたノートやPCは、自分の中身を整理するために用いる「器官」のようなものだった。日々、日記を書くことで考えていることを明らかにし、いつもそこを通してから話し表現していた気がする。

ことばと本当の感情にはどうしても距離があるから、自分にとって大事なことを大事な人に、自分の中身と一番近い形で伝えるために、言葉を選び組み立てた。話しながら言葉を選び、いちばん相応しいことばを。

元夫と出会った当初、私のその言葉選びについて批判されたことがある。「血が通っていない」と。一方で思ったことをそのまま口にすれば「お前の話は論理的じゃなく何を言いたいのかわからない」とも言われた。

熟慮して理論を組み立てて話せば血が通っていないと言われ、感情や感覚を表現すれば論理的じゃないと、どのように何を話しても批判されることが続いて、そのうち自分のことばを発することができなくなっていった。

結婚後、交友関係は狭められ、話す相手・受け入れてくれる相手もごく少数になり、自分が話すことばなど何の意味もないと思い始めた。


「私」がここに居るということを、担保してくれるのは他者だ。働きかけたことに反応してくれる他者の存在が「私」を証明する。

ひとりで居る時、本当に自分は「ここ」に居るのか、はとても曖昧だし、多くの人が周囲にいたとしても、誰も自分を顧慮しないとしたら、もはや「私」はそこには居ないのかもしれない。

「私」が発したことばを聴いてくれる他者。受け入れられ、その人にわずかでも何かの影響を及ぼすということ。存在するというのはそういうことだと思う。

ことばが受け入れられないこと、発すると同時に言葉が消失していくような感覚。空中にバラバラになって意味を持たない言の葉が漂っているのを、ただ呆然と眺めるしかないような。そんなことの連続だった。

同じ言語を話しているはずなのに、全く言葉が通じない。語ることを諦めた沈黙は、嫌な緊張と重苦しさだけだ。

その中で日常的に強いて受け入れさせられる「言葉」が、「私」をコントロールしていった。自分の「ことば」を失ったところに他人の言葉が入り込んできたのだ。エゴが剥き出しの硬直した言葉。

もともと私自身がことばに重きを置きすぎていた。言葉で話されることが、かならず内面や本心、真実を表すものだと信じすぎた。

私にとっては、私の信じられる友人たちにとっては、そうだとしても、そうではない人は世の中に無数にいる。

そしてそれはその人々の自由。そうした人が嘘偽りで生きていようが、じつは私には関係ないことなのだ。

私がそういう人を受け入れなければいいだけ。そんなことを理解してなかった。

誰かにとって都合のいい常識は、もっともらしい言葉で良いもののように語られ、人の心を侵食していく。もしくは、強迫的にひびき罪悪感を持たせて語る側に都合よく誘導する。


私の中にある私自身のことばは、誰に何を言われてもそれはそれで良かったのだ。

でもそれと同時に、ことばではない感覚や体感を私は知るべきだった。バランスよく。すべて自分として。

ことばで掴めないものも表現できないものも、自分の中にあることを意識して。

ことばがすべてではないと理解することと、ことばを軽んじることは違う。すべてではない、と知っていれば、もっと自分のことばを大切にできるのかもしれないし、ことばで掴めないものに気づき、それに聴くこともできるのだと思う。


別居前、心理的な回復の経過で、身体を鍛えるということを覚え始めたのも無関係じゃないのだと思える。

これまで生きてきて、自分からすすんでスポーツやトレーニングをしようなんて思ったことは、その時までただの一度もなかった。

けれども、身体には身体の「ことば」があり「記憶」もあることを、鍛えることで感じられるようになった。

だから、いま感じていることも、考えていることばも、同じように重要な「私のことば」なのだ。


自分、など他人に探してもらうもんじゃないし、楽して見つけられるものでもない。どこか遠くにあるわけでもない。すでにあるものを自分が見てないだけだ。深く自分で埋もれさせたまま。

いろんなひとのいろんなアドバイス、言葉、それを取り込んだとしても、咀嚼して自分のことばにしないと容易にあたまを乗っ取られ、自分探しどころか自分を見失う結果になる。

掘り下げる覚悟が私にあったわけじゃない。人生の中でずっと、そんな状況に追い込まれてきただけで、できれば逃げ出したかったし、辞めたかったし、辛いことこの上なかった。

でも、掘り下げていって、どんどん地の底の暗いところまで深く入ってみたら、逆側の表に出た。

埋まるのは怖いし先が見えないけれど、いったん埋まったら違うところから出られる。その時必要なのは、かき分けていく体力とか、感覚なのだ。


失いかけた自分のことばを編みなおすために、話す、書く。読んでくれる、聴いてくれる他者がいることで、私はここに存在している。




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