見出し画像

六道さんで逢いましょう【序章・おばあちゃん】

あらすじ

深町ふかまち菜穂子なおこは大学三年生。東京の大学に通っていたところに「祖母危篤」の連絡が届くも、京都に向かう新幹線の中で最後の瞬間に間に合わなかったことを知らされる。
 そんな志緒の初盆。
 祖先を迎えるための鐘を撞いた、その日の夜。菜穂子は不思議な現象に遭遇した。
教師だった祖母の教え子・八瀬やせあきらを名乗る青年に「先生にどうしても、を待つ子供たちの先生になって貰いたい。生前の夫、つまり君のおじいさんを説得して貰えないだろうか」と、どう考えても夢の中の出来事、荒唐無稽と思える懇願を受けたのだ――


序章 おばあちゃん

【残念。間に合わへんかったわ】

 母からのメールには、その、たった一行だけ。

 菜穂子は溢れる涙を止めることが出来ず、京都に向かう新幹線のデッキで膝から崩れ落ちた――


.゚*。:゚ .゚*。:゚ .゚*。:゚.゚*。:゚ .゚*。:゚ .゚*。:゚*。


【1】
 深町菜穂子は東京で一人暮らしを満喫する大学生だ。

 高校で進路希望を聞かれる学年になった頃から、実家から通える大学に進学して欲しいと両親、特に母が願っていたのは分かっていたけれど、ある時テレビで見た考古学の教授の授業をどうしても受けてみたいと、東京の大学への進路を決めた。

 当然、母親とは大ゲンカだ。今にして思えば、事後報告になっていたのもケンカの原因ではあったのだろう。父は早々に諦めたのか、母の了解を取ることが上京の条件だと言い、そこで事態は膠着してしまった。
 ただ、見るに見かねたのかも知れない。そこに祖母が仲裁に入ってくれたのだ。

『あんたの人生や。あんたが後悔せんように決めたらええ。せやけどな、誰にも相談せえへんのは、あかん。話し合いひとつせんと出て行くのは、あかん。お父さんもお母さんも、何の苦労もなしにここまであんたを育ててきた――なんてことはないさかいな。きちんとあんたの想いを伝えるところまでが、育ててもろうたあんたの義務や』

 上京を反対する母親に苛立ち、いっそ家出をしてやろうかとまで思っていた菜穂子を、そうやって落ち着かせてくれた。

『納得いくまでケンカしよし。それでもどうしてもあかんかったら、おばあちゃんがお金出してあげるさかい、行きたいところに行ったらええ。遊びに行くんやのうて、教えて欲しい先生がいる言うのは、おばあちゃん気に入った』

 両親と、祖父母夫婦はいわゆる「敷地内同居」だった。
 だから菜穂子は小さな頃からしょっちゅう遊びに行っていたし、祖父母ともに可愛がってくれていた自覚もあった。

 菜穂子が進路問題に直面する頃には、既に祖父は他界していたため、この時はもっぱら祖母が菜穂子の「お悩み相談」相手だった。

 気に入ったと、その時祖母が笑ったのには理由があった。
 もともと、祖母は結婚前は小学校の教師だったのだ。

 寿退社が当たり前の時代だったため、祖父と結婚するにあたっては辞めざるを得なかったらしいが、それまでたくさんの生徒を教えて、中学校へと巣立たせていたと言う。
 
 だから「教えて欲しい先生がいる」と言った菜穂子の言葉に、我が事の様に表情をほころばせていたのだろう。

『勉強しに行くって言うてるんやから、ええやないの。私なんかせいぜい「先生、オルガン弾いて」とか「歌うたって」とか言われるくらいやったしなぁ……そんなん言われてみたかったわ』

 今でこそ教科担任制の導入検討がされている小学校教育だが、祖母の時代は当然、色々な教科を担任の先生がひとりで教える仕組みだった。

 音楽は専科であって、祖母の担当ではなかったらしいが、下手な音楽の先生よりも生徒には喜ばれていた――とは、祖母がその頃の話をする度に自慢していることだ。

『菜穂子かて、いつまでも親が面倒みなあかん子供やないんやさかい、そろそろ、あんたも子離れしよし』

 納得するまでケンカをすればいい、と祖母はいっていたけれど、結局は最初から菜穂子の味方をしてくれて、母を押し切ってくれたのだ。

『がんばりや。新幹線代かて、そんな安いもんと違うんやさかい。帰れる時にだけ帰ってきたらええよ』

 そう言って、笑って送り出してくれた。
 だから、夏にしか帰っていなかった。

 GWや年末年始と、年に三度も京都と東京を往復するような余裕はなかったし、バイトに明け暮れていて、夏のお盆、ご先祖供養の行事の時にだけ帰る習慣が、二年続いていた。

 それでいいと。
 いつでも笑って出迎えてくれると。

 ――信じて疑っていなかったのだ。


【2】


 少し前から、祖母は入院していた。
 お見舞いに帰った方がいいかと京都の母に尋ねたら、今はまだ帰らなくていいと言われた。

『八十歳過ぎてるんやさかい、そらどこなと弱ってくるわ。ちょっとしんどならはる都度たびに帰ってたら、あんたも色々もたへんやろ』

 大学進学の時にちょっと揉めたとは言え、母は母だ。
 娘の懐事情はよく分かっているとばかりにそう言って、病院に携帯電話を持っていっては、面会室で携帯越しに一言二言、祖母と話をさせてくれる――と言ったことを何度もしてくれた。

 だからなんとなく、京都に帰っているような気になっていた。

『もしもし、菜穂子か。あんた、機嫌ようしてるんか』

 元気か。
 そう言う意味をこめての、祖母の第一声はいつもそれだった。

 先生の授業は面白い。
 大学で彼氏が出来た。
 そんなことを聞かれるたびに答えていた。

『そうか、そうか。機嫌ようしてるんやったら、そんでええ』

 そしていつも、最後はそう言って会話を終えていたはずだった。
 それがいつからか、そんな電話の後に母も決まって同じことを言うようになったのだ。

『明日になったら、もう忘れてはるかも知れんわ。今度話す時にまたおんなじことを聞いたり言わはったりしても、言い返したらあかんえ?』

 優しく相槌を打て、と。

 聞けば小学校で先生をしていた頃の話、結婚前後の話なんかを、何度も何度も母にするようになったらしい。

『あぁ……結婚云々の話は、小さいころに聞いたことあるかも』
『おばあちゃん、子守りやうて夏の縁側で喋りすぎて、あんたが脱水症状になってるの気が付いて無かったからな。そういう意味では、あんたも話の全部は覚えてないやろ』

 多分、幼心に「へえ!」とか「それで、それで?」とか喰い気味に聞いていたのがいけなかったのかも知れない。

 その時点で既に聞き飽きていたであろう父や母が塩対応だったのも想像に難くなく、結果として祖母は嬉々として話し続けて――孫は熱中症になっていたのだ。

『戦争でレイテ島から復員したおじいちゃんが、着の身着のまま、婚約してたおばあちゃんが働いてた小学校に迎えに行ったって言う話は覚えてるわ』

 ちょうど授業は終わっていて、小学生の子供たちはもうみんな下校していた時間だったらしい。
 祖父は校長先生に頼み込んで中に入れて貰い、教室から職員室に戻ろうとしていた祖母と廊下で出くわしたんだそうだ。

 今ならそもそも門の中にさえ入れないだろう。
 それに、入れたからと言って祖母のいる教室を教えたと言うのも、このご時世ではあり得ない。

 恐らく祖父の格好を見た当時の校長が「お国のため」戦ってきたであろう祖父に敬意を払って、そうしてくれたのだろうと今なら想像出来る。

『どちらさんですやろ?』

 そして夕陽の影で姿が見えず、目を細めてそう誰何すいかした祖母に、祖父は答えたらしい。

『俺や』

 ――と。
 まあ、今なら多くの女子が眉を顰めそうな態度と口調だが、終戦直後の時代には、それも許されたんだろう。

『俺や、言われましても……ああ、保護者の方ですか? 生徒さんは今日はもうみんな帰ら――』
『……っ! そやから! 俺や、言うてるやろ!』

 そんなやりとりが、当時あったらしい。それは、菜穂子の記憶にもある祖母の話だ。

 (いや、おじいちゃんツンデレか!) 

 と、成長してその話を思い出した時には、心の中で思わず叫んだくらいだ。
 菜緒子の記憶にある祖父は、あまり口数の多い方ではなかったからだ。
 定年まで区役所勤務、定年後も区役所の嘱託で宿直をしていたくらいに、生真面目を絵に描いたような人だった。

 祖母の話に脚色があるのかないのかは不明だ。
 母曰く、生前の祖父はその話が出始めたら、そっぽを向いてテレビのボリュームを上げて話をぶっちぎっていたらしいからだ。

本当ほんまのこと言うたら、もうちょっと先生してたかったんやけどなぁ』

 そんな祖母の苦笑いも、多分テレビの音で聞いていなかっただろう、と。

 まあだけど、復員してそのまま祖母に会いに行って、あっという間に結婚したと言うのだから、そこに重めの愛があったことは間違いない。

『なんやかんや言うて、おばあちゃんも嬉しかったんやろうと思うわ。病院に行く都度たんびに何回もその話をするんやさかい』

 赤紙招集されて、日本ではない遥か海の向こうに行かされて、帰ってこない可能性もあった婚約者。

 年月を経て、たくさんの記憶がこぼれ落ちてしまっても、陽の沈む放課後に、自分のところに戻って来てくれた祖父の姿は、いまだに祖母の脳裏に焼き付いているのだ。

『まだ、あんたやお母さんのことを覚えてはるだけでも有難いと思っておかなあかんのやろうな』

 電話の向こうの母に、返す言葉を菜穂子は持たなかった。

 そしてその日が、祖母の「機嫌ようしてるんやったら、そんでええ」と言う言葉を聞いた、最後の日になったのだ。

 ……その数日後には「おばあちゃん、もうあかんかも知れん」と言う母からの電話に、早朝叩き起こされることになったのだから。


【3】


 菜穂子の住んでいるところからは、始発の新幹線には間に合わなかった。
 それでも可能な限り早く東京駅に向かった。

 新幹線に乗る少し前、母から【耳元に受話器をあててあげるさかい、待っててくれって言うか?】と、メールが届いた。

 返事は期待するな、ともそこには続けられていた。
 けれど菜穂子に、それを拒む理由はなかった。

『おばあちゃん! 菜穂子! 今から京都行くから、新幹線乗るから、待ってて! 話することいっぱいあるから!』

 受話器の向こうからは『お孫さん来はるまで、頑張らなあきませんなぁ?』と、声をかけているらしい看護婦さんの声が聞こえた。

 新幹線が京都に着いたら、すぐにまた連絡すると、そう言っていったん通話を終了させた。

 たかが二時間とちょっとの距離だと思っていた。
 それがこんなに遠いものなのだと、初めてこの時菜穂子は思った。

【残念。間に合わへんかったわ】

 ――デッキから見えた富士山の景色を、メールの内容と共に菜穂子は一生忘れないだろう。


.゚*。:゚ .゚*。:゚ .゚*。:゚.゚*。:゚ .゚*。:゚ .゚*。:゚*。


『そら、あんたが東京に行くって言うた時から、間に合わへんかも知れんことは覚悟しとかなあかんかったやろ』

 葬儀社の人がバタバタと動く中、茫然と座っていた菜穂子に、母がそんな風に声をかけてきた。

『お母さんかて、お父さんかて、その可能性がないとは言えへん。それでも東京に居続けてるんやから、今更ボロボロと泣かんといてくれるか』

 よく見れば、母の目も赤い。

 お通夜とお葬式が終わるまでは、周囲の手前、菜穂子のようには泣いていられないのだろう。

『菜穂子は、おばあちゃん子やったさかいな』

 そんな父の言葉は、フォローだったのか、いつぞやのように母と言い合いにならないよう、気を遣ってのものだったのか。

 とにもかくにも、こんな時に反発ばかりもしていられない。

 菜穂子は手にしていたハンカチに、こぼれ落ちていた涙を全て吸わせると、お通夜に顔を出して下さるだろう人たちを迎えるために、祭壇の傍に用意された椅子に腰を下ろした。

 曾祖父の頃までは、近所のどの家も自宅でお通夜、葬儀と執り行って、町内の人たちも代わる代わる顔を出してくれるような、そんなスタイルだったそうだが、今のご時世ほとんどが病院から葬儀場に直接運ばれて、そこで諸々の手続きをするんだそうだ。

 町内会長に一報を入れて、至急の回覧が町内を回って、決まった時間に葬儀場のバスが町内の広場にやって来て送迎をしてくれるらしい。

 自宅だと、お通夜やお葬式の時間にかかわらず、入れ替わり立ち替わり近所の人がやって来る可能性もあるため、その仕組みは、実は遺族にとっても助かっている面が大きいのだと言う。

『おばあちゃん、おじいちゃんのお葬式の頃から「自分の時は家族だけでこじんまりとやってくれたらええ」って言うてはったんやけどな』

 遺影を見ながらポツリと、母がそんなことを隣で呟いた。

『なんやかんや言いながら、近所の人がおじいちゃんのお見送りに来てくれはった時に、嬉しそうにしてはったんやわ。そやからやっぱり、家族だけって言うのも寂しいかなと思てな』

『……そうなんや』

 別に祖父が偏屈だったとか、そう言ったことは思わないのだが、家族や親類以外の人が来てくれると言うことは、それだけ周囲に認められていたと言うあかしにも見えて、嬉しかったのかも知れない。

『おばあちゃん、昔先生やったんなら、教え子とかいっぱい来はるんと違う?』

『今日はそこまで連絡回らへんやろうな。実際のところ、亡くなってる人も多いやろうし。町内会経由でちらほら来てくれはったらいい方やと思うわ。明日のお葬式は、もうちょっと来はるかも知れんけどな……』

 そうか。

 小学校とは言え、祖母が教師をしていたのは終戦の前後。
 教え子たちもそこそこ高齢と言うことになり、確かに大勢が押しかけるとまではいかないのかも知れない。

『二人とも、お上人しょうにんさん来はったから』

 ふうん、と頷いていると、葬儀社の人に呼ばれていた父が、そう言ってこちらへと戻って来た。

 最近まで分かっていなかったのだが、深町家は「南無妙法蓮華経」を唱える日蓮宗のお寺の檀家であり、その日蓮宗では「お坊さん」や「住職さん」と言った言い方はせずに「お上人しょうにんさん」と呼ぶのが習わしと言うことだった。

 私と母も、そのお上人しょうにんさんに挨拶をするために立ち上がった。


【4】


 法要は故人を偲ぶ場。
 故人を供養すると言う点では、宗派が違ってもそこに大きな違いはないらしい。
 初七日、四十九日、百か日と法要が執り行われるのも同じ。

 更に最近では、遠方だったり仕事だったりで集まりづらい親族の事情も鑑み、お通夜の際に初七日の繰り上げ法要を行ったり、四十九日と百か日を取りまとめて法要を行ったりと、時代に合わせて法要のあり方も変化しつつあるのだと、お上人しょうにんさんは教えてくれた。

 父にも仕事がある。
 母と相談の結果、深町家としてもこの場で繰り上げ法要にしようとの話になった。

 だからと言って、決して薄情だとか、浄土へと向かうのに差し障りがあるとか、そう言うことでもないんだそうだ。

『ご遺族が亡くなられた方のために供養する。それによって積まれた「徳」が、四十九日に死後の行先を決める際の指標になると、日蓮宗われわれは考えているんです』

 そう言ったお上人しょうにんさんは、使い込まれた小さな本を家族それぞれに手渡した。
 全部ではないが、その中の何ページかを、法要の合間にお上人しょうにんさんと共に読み上げるためらしい。

『法要の時にはこれを読み上げて貰いますけど、それ以外の時にはいつでも手を合わせて「南無妙法蓮華経」と唱えて貰うたらよろしい。最終的に浄土に行けたかどうかと言うのは、現世こちらからは確かめようもないんですけど、自分達の気持ちが「徳」となって、大事な人をあの世へと送り出した――そう信じて区切りをつけるのが、四十九日やと日蓮宗われわれは考えてますから』

 こうすれば、魂があの世へ行ける――などと断定されるよりも、それはよほど菜緒子の中でもストンと納得がいったのだが、母の方はどうやら少し思うところがあったようだ。

菜穂子あんたのおじいちゃんの時にも思ったけど、祈っても祈っても、法要済んでも、あの世に行けたかどうか分からへんって言うのはなぁ……』

 祖父と、今回の祖母の法要しか記憶にない菜穂子とは違い、母の場合は自身の実家の宗派が違ったらしいから、その辺りにも違和感の原因はあるのかも知れない。

『お母さん……実際、あの世に行けたかどうかなんて、うちらが生きてるうちには誰にも分からへんことない? あの世に行ったと信じましょう、って、別に間違ったこと言うてはらへんと思うけど』

『それは、そうなんやけど……』

 逆に、何日忌法要がどうだと色々と乗っけられて、その度にお布施を払わされるよりはいいだろうに。
 さすがにそれは、この場では多方面に失礼だと思うので、菜穂子は口を閉ざす。

『四十九日の法要の後は、年忌法要言うて、浄土に行かはったであろう故人を偲ぶ気持ちに重きを置いた法要をやらせて貰うんです。今のご時世、何回忌まで法要をやらはるかは各家の判断になってますけどな。要は明確な決まりはないんですわ』

 三十三回忌とか五十回忌とか確かに聞くが、直接故人を知る人が皆亡くなってしまえば、故人は「先祖の一人」となって、お盆に祀られるのが一般的になるようだ。

『まあ、なかなかそれすらままならへんご家庭も増えてきましたさかいにな。時代言うのは難しいもんですな』

 お上人しょうにんさんはそう言って、ほろ苦い笑みを垣間見せた。

『ほんなら、お経あげさせて貰いましょか』

 祖母を知る人たちが手を合わせに来てくれるであろうその前に、菜穂子らは、家族だけで先に手を合わせた。
 お通夜とは、また別だ。

 元々お上人しょうにんさんは、檀家としての深町家、すなわち祖父とも祖母とも昔からの顔見知りだった。

志緒しおさん、毅市きいちさんに会えてはったらよろしいんですけどなぁ……』

 だからきっとその呟きは、日蓮宗の上人しょうにんとしてではなく、祖父と祖母を知る一個人としての呟きなんじゃないかと、聞かずとも菜穂子は思ったのだった。


【5】


 父と母に聞いたところをまとめると、お通夜には近所の人たちが主に手を合わせに来ていて、お葬式に来ていたのは、京都以外のところに住む関西圏の親戚や、それこそ祖母の教え子と名乗る人たちだったようだ。

 関西圏の親戚ですら、うろ覚えの状態だった菜穂子は、都度説明を受けないことには誰が誰だか分からなかったのだ。

 もっとも、祖母の教え子となるとさすがに両親も、相手から言われて「なるほど」となっていたようだ。

 高辻先生、高辻先生と、こぞって彼らが口にしたことで、菜穂子は実は今日初めて祖母の旧姓を知った。

 小学校の先生だった、という記憶が残るばかりで、それが旧姓か深町姓かなんて、いちいち聞く必要もタイミングもなかったのだ。

 そしてその教え子たちは、皆が同い年というわけではなかったものの、まるで示し合わせたかのように「高辻先生との思い出は、音楽室でオルガンを弾いて童謡を歌ってくれたこと」だと、祖母との思い出を語った。

 専門課程として音楽の教師はちゃんといたらしいのだが、その先生が体調不良や身内の不幸などで休みをとった時の代理で、何度か臨時の授業を受け持っていたらしかった。

 透き通ったキレイな声で「チューリップ」を歌っていたのだと言う。

(そう言えば、おばあちゃんにオルガン置いてあったな……)

 菜穂子の時代になると、ピアノやエレクトーンを置いてある家はちらほらあっても、オルガンのある家と言うのは覚えがなかった。

 珍しいからこそ、敷地内同居の祖父母宅に、外側が木で出来た骨董品のようなオルガンがあったのは菜穂子の記憶にも残っていた。

『おばあちゃんに、オルガンってまだあるん?』
『なんやの、いきなり』
『いや、なんとなく』

 不意打ちの問いに母は眉をひそめたものの、お葬式の前後で祖母とオルガンと童謡の話が複数回出ていたことは分かっていたんだろう。あっさり「まだ置いてあるわ」と、菜穂子の問いかけを肯定した。

『あんたかて、小さい頃おばあちゃんに「チューリップ」弾いて歌ってもろてたわ。覚えてへんのかも知れんけど』
『ああ……言われてみたら確かに……』

 いつ、と聞かれるとちょっと困ってしまうが、調律なんてしたこともないだろうくぐもった音にも関わらず、嬉しそうにオルガンを弾いて「咲いた 咲いた」と歌っていた祖母の姿は、確かに菜穂子の記憶の奥底にあった。

『固そうな鍵盤やなぁ、って思ったのはなんとなく覚えてるわ。オルガンの音より鍵盤叩く音の方が大きかったんと違うかな』
『まあ、大層やなとは言い切れへんな』

 お互いに古びたオルガンを脳裏に思い浮かべて、母とどちらからともなく苦笑いを浮かべる。

『あのオルガン、どうするん』

 そもそも、敷地内同居だった祖父母宅内、遺品整理だってする必要はあるだろう。
 そんな意味もこめて聞く菜穂子に、母はゆるゆると首を横に振った。

『お母さんもそうやけど、お父さんかてまだ気持ちの整理がつかへんやろうしな。しばらくは今のままにしておくわ。それにオルガンは、なんぼなんでもお焚き上げは無理やろ』

 棺には入れられなかったものの、故人を偲んで生前大切にしていた物をお寺で供養として焚き上げて貰うことも出来るようだが、母の言う通り、オルガンはさすがに無理だろうなと菜穂子も思った。

 かと言って、粗大ゴミに出してしまえるのかと問われれば、微かな思い出が残る菜穂子でも、すぐには頷けない。

『ある程度の年忌供養のところで、また考えるわ。今は無理やわ』

 そう言った母の言葉に、反対する理由は菜穂子にもなかった。



 帰宅後確かめたところ、まだ微かに音も出る状態だったため、尚更家族の誰も「処分しよう」とは、言えなかった。


第一章:https://note.com/karin_w_novel/n/n24cab2841861

第二章:https://note.com/karin_w_novel/n/n5d1f1dd0abeb


#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?