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母、叔母、三宅一生氏からのバトン

映画「ひろしま」の上映が無事に終わった。売れ行きが思わしくなかったチケットも、最終的には座席数の半分は売れてくれ(60席中32席)、ホリデー真っ只中ということを考慮すれば、まずまずの客入りだと、マネージャーは言ってくれた。実際、同じ時間に隣のスクリーンで上映予定だった映画は、観客ゼロだった。32名のお客さんのうち、およそ半数が日本人以外の方で、日本人のほとんどは私の知人友人だった。
客数だけを捉えれば「上映会がうまくいった」、とは言えないかもしれない。しかし、数は少なくても日本人以外の方が興味を持って観に来てくださったこと、私の大切な人たちが私の声掛けに応えて足を運んでくださったことは、本当に有り難かった。

映画の上映に先立ち、私から簡単なイントロダクションを行なった。この映画の上映に至った経緯、『Oppenheimer』を観て私が感じたこと、『ひろしま』が製作された背景、映画のプロデューサーの方からのメッセージなどを、私からお客さんに向けて話した。何を話すべきか、話さないべきか、どうやって伝えるのか、どうやったら伝わるのか、何度も考えた。数年前からお世話になっている英語の先生に単発レッスンをお願いし、言葉の選び方、話し方、発音の仕方などのアドバイスもいただき、何度も練習をした。上映が決まってから当日まで、常にイントロダクションスピーチのことが頭にあった。
それにも関わらず、本番になり、スクリーンの前に立つと、やはり緊張してしまい、何を話したのか、練習の通りにできたのか、ちゃんと覚えていない。しかし、人数が少なかったからこそ、ひとりひとりに語りかけているような気持ちで話せたことは、私にとっては非常に良かった。その言葉が、どれだけ相手に伝わったのかはわからないけれど、話しながら目が合った人たちの視線は、とても温かかった。

上映後には、観に来てくださった方数名と少し話をした。
「今まで、ヒロシマという名前は聞いたことがあっても、そこでどんなことが起きていたのかは知らなかった」
「今こそ観るべき映画であり、そして、これからも伝えていかなくてはいけない映画だと思った。観れてよかった」
「広島で何が起こっていたのか、世界中が知るべきだと思った。核兵器は二度と使ってはいけないと思い知らされる映画だった」
という感想をいただき、映画の持つメッセージはちゃんと伝わったのだと感じた。

日本人の知人友人たちからは以下の声をもらった。
「海外にいると、戦争や原爆について学ぶ機会がほとんどないので、このような機会を作ってもらえてよかった。もっとこういう機会が増えればいい」
「日本人だけれど、今までこの映画(ひろしま)を知らなかった。戦後間もない時期に、被爆者の方がどんな思いでこの映画を作ったのかと想像すると、胸が詰まった」
「中学生の息子と一緒に観ることができてよかった。平和や戦争について親子で改めて話し合うきっかけになった」
そして感想をくれた全員から
「このような機会を作ってくれてありがとう」
と言ってもらえた。その言葉が、なにより本当に嬉しかったし、上映してよかったと思えた。

会話を交わしたひとりのマダムから、
「“flash bang”と翻訳されていたのには何か意図があるの?普通なら“explosion”とかになるわよね?」と尋ねられた。私は英語字幕をほとんど見ていなかったので、気が付かなかったのだが、そういうところが気になったりもするんだと、私にとって新たな気付きだった。それについて、私の英語力では即座にうまく応えられなかったけれど、横で聞いていた英語堪能な友人が
「原爆を落とされた時に、被爆者の方たちはそれが”原子爆弾“だとは知らなかった。『ピカっと光ってドーンと爆発した(爆音が鳴った)』から、その場に居合わせた人たち(被爆者の方たち)は『ピカドン』と呼んでいた。『ピカドン』という言葉は固有名詞のようなものなので、あえて“explosion”ではなく、“flash bang”という訳にしたのだと思う」
と私の代わりに応えてくれた。そのマダムと友人とのやりとりを聞いていて、自分の中のひとつの想いに気がついた。1945年のあの日、広島(そして3日後の長崎)にいた人たちは、空を飛ぶ一機のB29から落とされたその黒い塊が、自分たちを、大切な人たちを、故郷を、一瞬にして焼き尽くしたものが、原子爆弾だとは知らなかった。マンハッタン・プロジェクトのトリニティ実験で、ゴーグルを掛けて、クリームを塗って、防音イヤホンを付けて、地面に伏せて、原子爆弾の爆発に備えていた人たちのように、それか原子爆弾だと知らされておらず、備えることもできなかった。ピカっと光り、ドーンと爆発したその怪物が引き起こした出来事を、それにより死んでいったたくさんの人たちのことを、そこで生き残った人たちが歩んだその後の苦悩を、“原子爆弾”ではなく“ピカドン”がもたらしたものを、私は『Oppenheimer』を観た人たちに伝えたかったのかもしれない。

昨年、ファッションデザイナーの三宅一生氏が逝去されたとき、私は自分のインスタグラムに、次のような投稿をした。

三宅一生氏が逝去された。
私は彼の服を着たことはないけれど
母がいつも着ていたので
割と親しみは感じていた。
彼の訃報で初めて
彼が被爆体験者であることを知った。
その体験を初めて語ったのが
2009年のニューヨーク・タイムズ紙への
寄稿文章であったことを知った。
その寄稿文章を読んだことが
イサム・ノグチ氏による平和大橋の存在を
初めて知るきっかけになった。
その寄稿文章を読んだことが
2016年のオバマ元大統領の広島訪問時の
スピーチ内容を改めて聞くきっかけになった。
三宅一生氏の逝去は残念なニュースだけれど
それをきっかけにして
私は知るべき事実を知り
考えるべき課題を与えられた。
偶然にも、広島に住んでいる叔母から
こどもたちに送ってほしいものはないかと聞かれ
原爆のことを伝えるこども向けの本を選んでほしい
と昨日、頼んだばかりだった。
こうして全てのことは繋がっていくんだ。
それを次に繋げていくのは、私だ。
R.I.P

あのとき、”次に繋げていくのは、私だ“と感じたからこそ、映画『Oppenheimer』から『ひろしま』のロンドンでの上映へと繋がっていったのだと、私は今、確信している。一年前、私が三宅一生氏から受け取った(と勝手に感じている)バトンを、私は“ロンドンで『ひろしま』を上映する”という形で、次に繋いだのだ。

映画『ひろしま』の上映が終わった2日後、日本から荷物が届いた。それは、私が母に送ってほしいと頼んでいたイッセイミヤケの服(新品ではなく母からのお下がり)だった。本当は、『ひろしま』上映の日に着たいと思っていたのだが、残念ながら間に合わなかったのだ。母から送られてきた小包を開き、紫色のプリーツのワンピースを広げると、それを着ている母の姿が目に浮かんだ。そうか、私は三宅一生氏からバトンを受け取ったと思っていたけれど、それよりももっと前に、母からバトンを受け取っていたんだと気がついた。母がいつもイッセイミヤケを着ていたからこそ、昨年の彼の訃報が私の中で大きな意味を持ったのだ。また、親戚の中でも一番お世話になっている叔母が長年広島に住んでいたこと、昨年その叔母から広島に関する本をこどもたちにプレゼントしてもらったことも、ひとつのバトンパスだったのだ。気づかないうちに、いろんな人からいろんな形で受け取っていたバトン。それを私も誰かに渡せていけたらと思う。少なくとも、今回の映画を観に来てくださった方ひとりひとりには渡した。それがどう次に繋がるのか、繋がらないのか、それは私にはわからない。けれど、自分の直感を信じて動くことで、自分以外の何かも動き始めることはあるし、それがまた他の何かに影響を及ぼすこともある。そのひとつひとつの大小多少はどうでもいい。大切なのは、自ら感じ、自らの意思で動くこと、そして、感じたことを自分だけのものとせず、他者と共有すること。それが、“バトンを繋いでいく”ということなんだと思う。そんなことを改めて感じた映画『ひろしま』の上映だった。上映に関わってくれた方、観に来てくれた方、情報をシェアしてくれた方、いろいろな形で応援してくれた方、見守ってくれていた方、全ての方に感謝している。

一週間前、ここまで書いたまま、この記事を下書きに保存していた。なんとなくまだ書くことがあるような気がしていた。何を追記するのかはっきりしていなかったけれど、投稿するのにはまだ時間が必要な気がしていた。
そして先週末、思い立って家族でAvebury というイングランドの小さな町に出かけた。日本人にはあまり有名ではないが、世界最大規模のストーンサークルがある場所だ(そのストーンサークルは世界遺産にも登録されているが、ストーンヘンジほど知られていない)。ストーンサークルをひと通り散策した後、町の中にあるSt. James Church という小さな教会を訪れた。その教会の片隅に、ひとつのロウソクが灯っており、その横には”The Hiroshima Peace Flame“と書かれていた。その火は「平和の火」と呼ばれる、山本達雄という人が、原爆投下後の広島から故郷の福岡へ持ち帰り、火鉢やこたつに秘かに保存し続けていた原爆の火なのだ(「平和の火」の詳細まで書くと長くなりすぎるので割愛するが、気になる方はご自身で調べてみてほしい)。たくさんの人の手を介し、それぞれの想いを宿し、あの日から78年経った今も、日本から遠く離れたイギリスの片田舎で燃え続けたその火が、私の目の前でゆらめいていた。
母や叔母や三宅一生氏から受け取ったバトンは、こんなところにまで繋がっていたんだ、と不思議な気持ちでその火を見つめていた。そして、この平和の火との邂逅が、私が一週間前に「何かまだ書くことがあるような気がする」と感じていたことだったのだとわかった。

全ての出会いは繋がっている。それを繋がりだと感じるか、感じた上でさらに次に繋げたいと感じるか、それは自分次第。私は、繋がりだと感じたいし、どんどん繋げていきたい。繫げるために、自分にもできることをしたい。いつかきっと、誰かに繋がると信じて。未来に繋がると信じて。