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その人のことが好きなのは、肩書きが好きだからじゃない

NINIROOMに、ある大学生が泊まりにきた時のこと。

ラウンジにパソコンを持ってきて、立て続けにオンライン会議に参加したあと、疲れたそぶりを見せながら、彼は近くの席に座った。

他の席も空いてるけどここに座ったってことは、なにか話したいのかしら。

彼はぽつりぽつりと話しはじめた。京都の大学に通う1年生で、学生団体を4つ掛け持ちしているとのこと。ここ数日はいつも以上に忙しくて、自分がすべき仕事さえままならなかったそう。挙句の果てに、自分の取り組み度合いを各方面から詰められて、正直しんどい、と。

どうして4つも所属しているのか聞いてみると、こんなことを教えてくれた。

大学生になって間もないころ、「何者でもない自分」であることに気づいた。
周りの学生や社会人は、自分のことが何をしていて、どんなことを成し遂げてきたのか説明できていた。でも、自分にはそれがなかった。
だから、声をかけてもらったプロジェクトや企画にどんどん参加してみた。そしたら抱えきれなくなって、疲れてしまった。

わたしは彼に、「何者かになりたいっていう欲求はどこから来るの?」と聞いた。でも、彼から返ってくる言葉の中には答えは見当たらなかったし、何度か聞き直してみたけれど、本人もよく分からないみたいだった。



「わたしは◯◯です」って、ひと言で説明できるような、いわゆる肩書き的なものって、渇望するほど欲しいものなのだろうか。

わたしが今まで近くで見てきた「ご機嫌に生きる大人たち」は、肩書きには興味が無さそうだった。

お手伝いしているバーの常連やオーナー、ローカル×ローカルで出会った宿客や地元の住民。NINIROOMのスタッフや長期滞在のゲストたち。彼らの周りには、自然と人が集まってくる。

こういう「自然と人が集まる人」って、その人の肩書きや実績じゃなくて、人格というか、「ひととなり」に惹かれて人が集まるように見える。

もちろん、すごい肩書きを持っている人の周りにも、人が集まるだろう。でも、その人の肩書きにつられて集まる人が多いんじゃないのかな、とも考えてしまう。

肩書きで自分を語る人の周りには、たぶん、その肩書きが好きな人が集まってくる。肩書きを声を大にして言わずとも、「ひととなり」や、その人そのものが愛される人もいる。

どんな人が周りにいてほしいか。自分の見せ方次第で、周りに集まる人も変わってくると思う。



翌朝ラウンジへ行くと、彼はもう宿を出発していた。スタッフのルミさんが、「あの子、カレンちゃんにありがとうって言ってたよ。色々話を聞いてもらえてすっきりしたって」と教えてくれた。


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