自己満足という地下資源
善行に対しての批判の一つに、
「そんなん、ただの自己満足やん!」というものがありますが、ぼくは
「自己満足、大いに結構!どんどんやり給え!」と思うのです。
特に善い行いについては、やっぱりじゃんじゃんやってほしいのです。
善い行いには大別して2つあると思います。
一つは、その先にtakeが期待された善行、
もう一つは自己満足しちゃう善行。
善行というよりはその人の性質にもよるのかなとも思いますが、ビジネスの場面では前者なんかは普通のことですよね。
後者については、仄暗い期待を隠しての行いではなく、善行によって、たとえ誰かに感謝されずとも満足できるという、まるで聖人のような考えに基づいた行動。
だから後者をどんどんやっていきましょう!
とは、いかない。
意識の高い人たちは口をそろえて「どんどん自分からgiveしよう!」と言いますが、少し危険な考え方やなと思うのです。
◆ 善意にはスタミナがない
善い行いは、可能ならどんどんgiveしてほしいですが、それは不可能です。厳密に言うならば、「持続不可能」ということです。
善意は非常に燃費が悪く、瞬く間にスタミナ切れを起こします。それは自分の財産を切り売りすることだからです。アンパンマンの顔だって、いつまでも分け与えられるわけではありません。
ボランティア、大事なことです。
でもボランティアに参加するということは、自分の時間を無償で他人に提供することです。当然ながら時間には限りがあります。
1日24時間あるうちの毎日1時間、ボランティアに捧げるとしましょう。
生涯、継続できますか?
物理的には可能でも、精神的に可能ですか?
質を下げずに、義務感を微塵も感じずに実行できますか?
ほとんどの人は「無理」と答えるでしょう。善意は長続きしないからです。
個人差はありますが、それは人によって「ゆとり」の幅が違うからです。時間的・経済的なゆとりがない人ほど、善意をひねり出すことは困難です。余剰がないのに、他人に分けることなどできません。
「ありがとう!という言葉があれば頑張れる!」という方もいますが、残念ながら「ありがとう」には賞味期限があります。
◆ 「ありがとう」の賞味期限
今まで他人から感謝された経験がない人が、初めて「ありがとう」と言われたときの幸福感は、計り知れません。でもそれが100回目、1000回目になったとき、感じ方はどうなるでしょうか。
1回の「ありがとう」の価値が、下がっていきませんか?
それだけならまだしも、感謝されることが当たり前に思うようになってしまい、万が一感謝されなかったときに、
「なんで俺に感謝せーへんねんコイツ」ってなりませんか?自分の行為は感謝されて当たり前、と無意識に思ってまうんやないですかね。
それは感謝を述べる立場の人間からしても同じです。
仮にあなたが地域の清掃ボランティアの主催者としましょう。初めて参加してくれた方に述べる「ありがとう」と、毎回参加してくれる方への「ありがとう」は、同じですか?「あの人は毎回参加してくれてるから、今回も参加してくれるであろう」と思ってしまったとき、感謝の気持ちは薄れますよね。万が一参加してくれなかったときに、
「なんで今回は不参加やねんアイツ」ってなりませんか?この二つの感謝に詰まっている気持ちは全く別物になるはずですが、大小によって使い分けてしまう方も少なからずいますね。
いずれの立場であっても、「ありがとう」の持つ力は次第に薄れてしまいがちなのです。当たり前の基準が上がってしまうんですね。
◆ 自己満足という無尽蔵の資源
そんな中、いつまでも善意を吐き出し続けられる猛者がいます。
自己満足できちゃう人です。
本来、満足というのは外部から注入されることによって得られるものですが、それを自己生産できてしまうなんて!!どれだけ愛情を注いで育てれば良いのかしら…!
でも実はぼくにも、超限定的ですが自己満足できるシチュエーションがあります。それは、道に落ちているゴミを拾うことです。目についたゴミ全てを拾うわけではないのですが、手の届く範囲に落ちているゴミは拾って捨てています。
1日に1つゴミを拾ったくらいでは、世界は何も変わりません。誰かが見ているわけでもなければ、誰かに褒められることもありません。
でもゴミを拾うたびに、自分のことが好きになるのです。「わては落ちているゴミを拾える大人でっせ、素敵でっしゃろ?うふふ」と思いながら。w
でもこのマインド、ぼくの場合は不思議と他のことには転用できないんですよねえ。なぜかゴミ拾いにしか発揮されない、なんでなんやろ。w
◆ giveにバテてしまう前に用意しておきたいもの
「まずは自分からgiveしよう!」というのは一定の真理です。自分からすべきであることは間違いありません。ただ前に述べた通り、giveするばかりではすぐにスタミナ切れを起こします。
だからgiveし始める前に、用意しておいてほしいものが2つあります。
① バタフライ・エフェクトを妄想する
自己満足、実は才能がなくても人工的に生み出すことができます。バタフライ・エフェクトとは、蝶の一舞いが世界の結末を変える可能性をはらんでいる、というものですね。
ぼくが最近行った自己満足をご紹介しましょう。
昨日のことですが、シュレッダーの紙が事務室の一角に散らばっていました。そのとき、こんなやり取りがありました
生徒「先生、紙を殺したのは誰ですか?」
ぼく「それは科学や、ニーチェも言うてるやろ」
生徒「???」
紙と神を取り違えたフリをして、ニーチェの格言で返すという高等なボケでした。生徒は小5なので、十中八九、ニーチェを知りません。w
でも生徒にはニーチェと哲学という言葉を残しておきました。彼は家に帰って神の死について、ニーチェや哲学について調べ、それにのめり込み、哲学に目覚めて周囲の人々を感化し、それが町内活動へ発展して取材を受けるまでになり、哲学で世界を変えるリーダーとしてクラウドファンディングを開始、中学生になる頃には飛び級でアメリカの大学に入学、全国紙での取材で、昨日の出来事を話してくれ、恩師としてぼくはメディアに登場、書籍を出版して印税と講演業、タレントとして活躍…
なんて、壮大な妄想です。最後の方、めっちゃヒドイですね。w
でもこの1ボケが、もしかしたらその人の人生を大きく変える可能性はありますよね。こういう「あったかもしれない世界」に思いを馳せることができれば、自己満足なんて簡単に引き出せるのです。
② 映画『ペイ・フォワード』を見る
ぼくがgiveの価値を改めたのは、この映画を見たからです。
改めるというと少し難しいですかね、今回は「本物かどうかを確かめる」という意味です。改札なんかは、この意味で使っていますね。
自分の知っているgiveの価値が、本当に正しいものなのかどうか、すごく不安になったのです。この映画はぼくの心に、大きな波紋を作りました。
Pay forward. というのは、受けた恩を返すのではなく、先へ送るということです。受けた恩は他の誰かにgiveしていくんですね。情けは人の為ならずといいますが、それに近いかもしれません。
何より見るべきは、この映画ではgiveの発端になった人物のたどる結末、あるいはgiveばかりしてしまう人の結末が描かれています。
…あんまり言うとネタバレになるので、気になる方は見てみてください。w
giveはとても良いものです。でも他人からのgiveを搾取し続ける人も少なからずいます。彼らに使いつぶされないよう、きちんと準備してgiveしていきたいですね。
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