時に情熱的で、常に微熱を帯びて
「愛してる」という言葉が口から溢れそうになる度、ためらっていた。
相手の目と耳と心に、はたまた己の本心に、ウソはついてはいないか?と疑念が晴れなかった。
「愛してる」と心から言えるのなら、それは、「愛すること」ができているということ。
だけど言葉は、言葉でしかない。
『体験』として、愛を分かち合えているのかどうか、自信がなかった。
これまでの自分は、"愛"という言葉や"愛情"という想いに熱を込め、お互いの心を温めてはいたかもしれない。
しかし、"愛する"という行為をどれだけ重ねてこられただろうか。
共に同じ体験をしながら、利他的に、相手を唯一無二の存在として抱きしめることが、はたしてできていただろうか?
メラメラと情愛が燃え盛るも、その余熱だけで相手を包み込むような、そんな真似はもうしたくない。
冷める度に、心が歪(ひず)んでいってしまうから。
時に、情熱的で…
常に、微熱を帯びていたい。
・・・だからこそ、相手の日常を想像し、非日常を創造したいと、そう志している。
日常を共に温めながら、互いの"閃き"を持ってして、非日常へ踏み出し続けたい。日常の"外"へ出たい。
「愛するということ」は、自他の境がなくなることなんだと思う。
相手に対して自分をなくし、委ねることで愛が始まるからだ。
己を明け渡し、一時的に『我を忘れることができる関係』には、信頼関係が宿るから。
それは依存ではなく、独立した先にある『共存・共栄』の世界線。
だからこそ、たとえ夜が更けようとも、己を明け渡し共に夜を越えれば、ゴージャスな朝が訪れると、そう信じ続けたい。
そのためには、「自分がやるべきこと」と「相手がやるべきこと」
各々の課題と役割を大事にしたい。
例えば、ベッドで添い寝している人がいても、朝起きるのは、自分がすべきこと。
…と同時に、隣で寝ている人のために朝ごはんを作って差し上げたいと想うのなら、己を明け渡すことだってできる。
その『愛するという行為』は、「じゃあ私は美味しいコーヒーを注ごうか」という役割を、相手にアフォード(afford)するかもしれない。
内発的な優しさは、なめらかに感染してゆく。
義務だからやるのではなく、「自然とそうしたくなっちゃった」という粋な優しさが共に栄える朝は、なんたってゴージャスだ。
そんな朝陽がやって来る日を、今日も待ち侘びて…
日常というウチを愛でながら、非日常というソトを照らし続けると、約束しよう。
それこそが、「愛するということ」なのかもしれないから。
・・・読んで頂きありがとうございます(*^^*)
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この文章は、先週まで連載していた『朝陽を待ち侘びて』の【あとがき】のような内容となりました。
愛や他者との関係性についてこれまでずっと考えてきましたが、『朝陽』や『水面(みなも)』といった自然の移ろいを観察し続けることで、考えが深まったように感じます。
自然の移ろいは人の心とそっくりで、色んな現象を見渡すことよりも、1つの現象の恩恵に与ることの方が愛を学べるなと思い、僕は写真を撮り続けています。
【朝陽を待ち侘びて】は机上の空論を書き込んでいるわけではなく、『陰陽五行説』から着想を得て、社会学の知見や自分が実践して得られた想いを織り混ぜて書き上げました。
ぜひ、読んで頂けると嬉しいです(*^^*)
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