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僕らはいつだって自分に興味がありすぎる

「独りになること」が、自分を知るということではないんよね

むしろ身近な他者との『関係性を深めること』が、自分を知ることに繋がっていく

もしも、自分を見失ってしまったり、自分が分からなくなったとしてもさ?

今までに他者と過ごしてきた事実が消えるわけではなくて、かつて育んできた関係の中に、自分は必ず存在している

関係性を深めようと踏み出すその時は、怖かったり…しんどかったりするから、独りになろうとしてしまうこともあるかもしれない

独りになるのって「最初は楽」だから、自分探しの手段として"最適だ"と、感じてしまいやすいんよね

僕自身、昔からよく独りになろうとしてしまう…

けれど、それは後からむっちゃ辛くなってくるし、そこに固執すると、ますます自分が分からなくなってくる…ということもしばしば

自分自身で「This is me!!」という確信を得たとしても、他者と触れ合う度に「そうじゃない自分」が見えてきて、また苦しくなったり、ますます独りになろうとしてしまう

『自分は〜である!』という確信が深まるほどに、他者から言われる「あなたってこういうところあるよね〜」という言葉が、届かなくなってしまう

・・・ところで、自分のことをもっと知りたい!と感じる時ってさ?

「周りが自分に対して求めているものが、自分らしくない!」と感じてしまった時じゃないかな?

就活中だったり、家族や学校、会社コミュニティの中で居場所感を見出だせなくなった時とかね

つまるところそれは…

「本当の自分を求めて欲しい!選んで欲しい!」という渇望で、他者は必要ない!わけでは決してなくて、むしろ他者のことを心の底から求めているんよね

独りになっちまったら、もっと自分を見失っちまう

"自分"として独立することと、孤独な存在になるということを、ごっちゃにしたらいかんのよね

自分が本当にやりたいことって何なんだろう?と、自らの奥深くへ潜っていくような時間も大切だ

・・・だけれども、僕らがその先で気づかなければいけないのは『海は広い』ということであって、「いつになったら海の底に辿り着けるんだろう?」と自らを深めてしまえば、浮上できなくなってしまう

今の自分にできることを、自分のためではなく『誰かのため』にやってみることで、その相手との間に"自分"を存在させることだってできる

その存在に、自分自身が気づこうとすれば…ね!

周りに居てくれる人は、きっといつだってそれに気づかせようとしてくれているのだけれど、僕らは自分に興味がありすぎてしまうんだ

だけれども、今の自分は、周りに居てくれた様々な人たちとの関係性の中で育まれていったものなんだ!と、気がつくことだってできるはず

それって、『半分は周りのおかげだし、半分は自分のおかげ』

自分をより深く知ることで、自分と世界との繋がりを紡いでいく

そういった営みが、自分という"世界"を、じわりじわりと広げていくことになるんだと僕は思う

・・・読んで頂きありがとうございます(*^^*)

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