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然るべき感情を共に感じることの先にある感動は

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【軟水のたそがれ】
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毎週日曜日の夜に更新しています!

※今回は日曜の夜に旅先で酔っぱらってしまったので月曜の朝に更新です(><)

この【軟水のたそがれ】は、

Twitterで更新している「#軟水のつぶやき」を中心とした僕のツイートを深掘りするエッセイ。

新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています(*^^*)

『軟水』とは、僕自身が「水のように柔軟に物事に溶け込んでいく性格」であることから名付けました。

柔軟な思考で、物事をやわらかく表現していきます!

・・・本日取り上げるツイートは、⇓コチラ!

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『感動する』とは、一体どういった状態を指すのだろうか?

想像しやすいのは、感動して泣いてしまうという場面。

では「涙を流すこと」が、感動なのか?

いやいや、たとえ涙を流していなくとも、感動していることは多々ある。

涙を流していた方が他者から見て感動していることが明らかではあるし、涙を流さずに感動していても気がついてもらえないこともあるだろう。

感動とは『動きを感じる』と書く。

それでは僕自身が動きを感じる時、つまり感動するのはどんな時か。

それは、「自分や他者の心が動いたことを感じた時」なのかもしれない。

例えば、僕は先日音楽フェスに行ってきた。

半数以上が知らないアーティストだったが、その中の1組にいたく感動し、泣きそうになり、その日のうちにファンになってしまった。

まさにこれは自分の心が音に奪われた瞬間であり、自分の興味関心がそのアーティストへと動いた瞬間をハートで感じとり、感動したのだろう。

一方で、他者の動きを感じとることで感動することもある。

先日、ラグビー日本代表がアイルランドを破るという歴史的瞬間があった。

筆者は日頃からラグビーを応援しているわけではないが、その結果を知り、映像を観て感動した。

それはきっと、選手やサポーターの「表情が動いた様子を感じた」から。

苦悩や心配の表情から、歓喜や感涙の表情へと変わっていく。

心の動きが表情に表れている様子に、僕はいたく感動するのだ。

・・・そして、その感動をますます高めてくれるものが『共感』だ。

音楽ライブで、隣にいる人たちと共に音を感じる瞬間。

スポーツを観戦しながら、喜びや悲しみを共に感じる瞬間。

このように「共に感じること」で、感動は増していく。

・・・ただし、「共感することそのもの」が目的になってしまうと、むしろ感動しなくなってくるものだ。

自分が感じたいことに素直になって、そのままの情動を大切に。

『然』の姿勢でいることが大切。

共感は確かに素敵で気持ちのよいことだが、逆に不自然な共感は気持ちがわるい。

感じたことを、感じたままに。

その先に、誰かが自分と同じように感じているのではないかと「同感」を求めたくなることもあるだろう。

ただ、きっとそこに感動はなく、同感を得られたという一瞬の気持ちよさがあるだけ。

何を感じたかどうかは、それぞれ違って然るべき。

それが『然』だ。

自分はこう感じて、あの人はこう感じた。

そのお互いの感動を、共に感じること。

然るべき感情を、共に感じ合うこと。

それこそが「共感」であり、その先にはさらなる感動が待っている。

・・・そんなことを感じた熊本は阿蘇の夜でした。

読んで頂きありがとうございます(*^^*)

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