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過去へのたそがれが自らを静かに熱狂させる

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【軟水のたそがれ】
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毎週日曜日の夜に更新しています!

この【軟水のたそがれ】は、

僕がTwitterで毎日更新している「#軟水のつぶやき」を、深掘りするエッセイ。

新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています(*^^*)

・・・本日取り上げるツイートは、⇓コチラ!

・・・さっそく深堀っていきましょー!


■心が空気に染まっていく感覚

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暑い日が続き、身体を取り囲む空気には、熱がこもっている。

僕ら人間は、空気に左右されやすい生き物だ。

冷たいクーラーの効いた部屋から一歩外へ出て、熱を帯びた空気に触れただけで、心もその熱に染まっていく。

自分の望み通りにいかないことに対し、カッとなることもあるだろう。

その際、心が熱くなってはいるが、それは「自ら熱を発した」と言うよりも、熱せられた空気に『心まで染まってしまった』という表現が正しいように思う

僕らは、自ら熱を発することを怠ると、いとも簡単に外からの熱に染まってしまう。

・・・その一方で、外からの熱に染まりやすい性質を経験から知っている人は、『自らを冷ます』という態度を取ることもある。

「私はその熱には決して染まらないぞ」と斜に構えた態度を取ってみたり、クールに無関心を決め込む。

その冷えた空気を保つために、外気をシャットアウトして部屋にこもることもあるだろう。

・・・しかしどれだけその冷えを保とうしても、部屋の扉を開けた瞬間、外から熱気はなだれ込んでくる。

熱い空気は、冷たい空気がある方へと流れていく。

扉を開けた状態で熱気と接したまま自らの冷たさを保つのは、夏場の温度調節を想像するに、相当なエネルギーを要することが伺える。

外からの熱に染まらぬよう「自らを冷ます」という行為は、きっといずれ根負けし、自らの意思に反して熱に染まってしまう。

または、部屋を閉め切って自らを冷やし続けた結果、外気との適切な触れ合い方を忘れ、他者との関係も冷え切り、『自ら熱を発する』ために必要なことをも忘れていくこととなるだろう。


■空気に染まるのではなく受け入れる

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外からの熱に染まってしまうこともなく、自らを冷やすこともなく、周りの空気に左右されずに、自ら熱を発したい。

そう思ってはいても、周囲に大きな熱源がある時ほど、それは難しくなっていくだろう。

いっそのこと、その熱を受け入れてしまった方が、楽かもしれない。

自らがその熱のこもった空気の一部となり、熱をより大きくするための一助となる。

火が燃えるのを、酸素が助けているように。

・・・それも一つの選択として、とても素晴らしいことだ。

ただその時は、「他者を支たい」「他者を応援したい」という熱を自ら発しているから、熱せられた空気に『心が染まってしまった』ということとは違う。

熱を受け入れている状態だ。

これは、自らの熱がその熱源をより熱くしていくだろう。

逆に言えば、「盛り上がっているから」「応援してほしいと頼まれたから」という、外の熱に心が染まってしまったが故の行動には、『自らの熱』がこもらない。

・・・空気に染まらずに、自らの熱を発し続けるためには、その空気を『受け入れていく姿勢』が求められる。

熱に染まるのではなく、受け入れていくのだ。

さらにそのためには、『自らが熱を発する時は一体どんな時なのか?』ということを知り、忘れないようにする必要がある。

「他者を支える」ことに熱を発するのならば、自分はどんな人を支えたいのか?自分は何を守りたいのか?を、軸として持っておくことが大切だ。

軸なき受容は、あらゆる空気に飲み込まれ、自らの心地よい体温を忘れていくようなもの。

また、自分の色を知らず様々な色に染まることを受け入れ、最終的に黒かグレーのような雑多な色に染まっていくだろう。

・・・自らが熱を発するための軸を見失えば、自分にとって心地の悪い熱気を排出しようとして、いずれ受容とは真逆の排外的な行為を引き起こすだろう。

やはり自分にとっての『熱を発するための軸』を確認することが大切で、それはおそらく「過去に熱中したもの」にヒントがあるはず。

それをしっかりと掘り起こし、自分で自分を燃やしたい。


■【さいごに】心が熱くなるのはいつ?

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今回は、ここ最近の自分を分析し反省しつつ、心の動きを抽象的に振り返ってみました。

・・・いやー、ホントにね。

「何かに熱狂している人」が羨ましいのですよ。

時間も忘れるくらい、周りの目も気にならないくらい熱狂したいなと思うのだけれど、時間に追われているし周りの視線も気になるわけですね。

そういったある種クールな1面があるからこそ、冷静な判断ができたりするわけだけれど、だからといって、「自分で自分を冷ましてたらいかんよな」と、思うわけです。

例えば、居酒屋のお酒を作るポジションで働いていたりすると、ピーク帯ってとんでもなく忙しいのだけれど、僕はその中で冷静に熱を燃やすことができていたんですね。

「お客さんに早く届けるため」とか、「周りのスタッフがお客さんに褒められるように」とか、「仕事できてカッケー!って思われるため(モテるため)」とか、その都度、熱くなれる目的を自分で用意していたので。

・・・それが最近では、仕事に限らず、あらゆる面で燃えていないなと。

熱中していないなと。

そこで自分がどんな時に燃えるのかな?と考えてみたら、それは『誰かのことを想っている時』かな?と、思ったのですね。

僕は景色を見ながらたそがれたり、物思いにはせている時は、時間が気にならないくらい没頭できることが多い。

それは「素晴らしい景色だから」とか、「自分に酔っているから」とかではなく、『誰かのことを深く想っているから』が大きいのかなと。

(たそがれている自分に酔っている時もきっとあるけどね笑)

あの人が心から喜ぶことは何だろう?
あの人はあの時どんな気持ちだったんだろう?

・・・こんなことを考えている時間に、僕は熱を発しているなと。

その対象は誰でもいいわけでは決してなくて、『喜ぶ姿が見たい人』や、『感謝を伝えたい人』のことを想って、たそがれている。

なので、今の自分にとってこういった存在は誰なのかということをしっかり確認し、改めて心を燃やしていこうと思います。

そういった存在とまた出逢うためにも、心をさらけ出していく。

僕は、たそがれること、人を想うことに熱狂していきたい。

・・・自分はどんなことに心が熱くなるのか。

これを大切にしていきたいですね。

今週も読んでいただきありがとうございました(*^^*)


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