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【30歳3ヶ月日記】想いがこぼれるその一瞬のために

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【軟水のたそがれ】
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毎週日曜日の夜に更新しています!

この【軟水のたそがれ】は、

Twitterで更新している「#軟水のつぶやき」を中心とした僕のツイートを深掘りするエッセイ。

新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています(*^^*)

『軟水』とは、僕自身が「水のように柔軟に物事に溶け込んでいく性格」であることから名付けました。

柔軟な思考で、物事をやわらかく表現していきます!

・・・本日取り上げるツイートは、⇓コチラ!

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僕が30歳を迎えてから、早3ヶ月が過ぎた。

3ヶ月前のツイートを遡っていたら、そういえばこの頃、新潟で大きな地震があったんだ。

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当時の自分が何をしていたか、どんな気持ちだったのか。

今ではもう、思い出すことができない。

それはそれで、「昨日より一歩でも歩みを進めよう」と、日々を懸命に生きていた証なのかな、とも思う。

・・・わずか3ヶ月前のことでさえ、人の記憶は容赦なく薄れていく。

だたこの夏は、地震の被害が大きかった村上市の海に行った。

村上の笹川流れという海の綺麗さに感動し、新潟にはまだ見ぬ美しさがたくさんあるはずだと、これがキッカケで県内を回って写真を取り続けた。

大好きな日本酒を飲む際には、村上や山形のものを選んだりもした。

たとえ記憶は薄れても、その時々の出来事を自分ごととして捉え、感じきることができれば、行動の端々に想いがこぼれてくる。

そういう意味で当時の僕は、一瞬一瞬を感じきって、自分なりの「想いや願い」へと、記憶を昇華していったのだろう。

・・・では今の自分は、果たしてどうだろうか?

30歳を過ぎて、より実感するようになったことは「1週間を過ぎるのが早すぎる」ということ。

例えば僕は、毎週のジャンプでワンピースと約束のネバーランドを楽しみにしているのだけれど、気がついたら店頭にジャンプが並んでいる。

昔は、早く発売日になれ〜!と時間が過ぎるのを願っていたけれど、今では気づいたら発売日になってしまっている。

これは、「1日1日を懸命に生きていない証」なのではないか?

こんなことを自問自答してみたい。

・・・30歳を迎えるまでは、「30になって何者にもなっていないのはヤバイ!」と、なんとなく不安を抱えていたような気がする。

だからこそ必死になれたり、向上心を持てるという側面があった。

実際30歳になった今、何者かになれているわけではない。

けれど、こうして日記を書いたら見てくれる人がいて、日々のツイートやインスタを楽しみにしてくれている人がいる。

一緒に遊ぼー!面白いことやろー!と、ノッてくれる友がいる。

慕ってくれる姪っ子たちや、支えてくれる家族がいる。

これらはとても有り難いことだなぁと、心から感じる。

・・・その反面。

現状を受け入れすぎて、努力や向上心を忘れてしまっていないか?とも感じる。

『自分を受け入れる』とは、現状を全て肯定してしまって、力の上限を決めてしまうということではないはずだ。

自分にはどうしようもできない現状を尊重しながらも、「この部分はまだまだ伸ばすことができるな!」と、自分の可能性を信じることが『自分を受け入れる』ということ。

僕にはきっと、まだまだやれることがある。

向上していくことができる。

楽でいられる現状を肯定するだけで、自分を受け入れた気になってしまっているのかもしれない。

自分の「伸びしろ」や「可能性」を認めて、信じて伸ばしていくことも、自己受容だ。

・・・そのために、改めて『渇き』を見つめ直そうと思う。

僕は一体、何に渇いているんだろうか?

1つは、『想いを知ること』だと思う。

世の中で流行っているものや、自分の琴線に触れて興味が湧いたもの。

そこには、どんな「想い」や「思想」が込められているのか。

それをもっと知りたい。

この夏は、新潟のお祭りや町の文化を深く学んで、その一歩を踏み出せている気がしている。

そしてあと1つは、

『愛されること』なのかもしれない。

愛されるためには、まず愛することから始めたい。

僕は「愛とは受容」であると思っていて、それは「相手をただただ肯定する」というだけではない。

その人にはまだまだ眠っている魅力や能力があるのに、自分で上限を決めてしまって、発揮できていない、そんなこともある。

そこで、その魅力を殻の内側から外側へと、引っ張り出すようなイメージだ。

相手が自分では決して変えることのできない部分は肯定して、自ら変えられる部分を、信じきる。

それこそが、本当の「受容」であり、”愛”なんだと思う。

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・・・つまり僕は、もっと愛したいんだ。

それは他者への愛でもあるし、『自らへの愛』でもある。

ただただ好きだなぁと感じる人の、変えられない部分は肯定し、変えられる部分を信じて支えたい。

そして、自分自身をもっと愛したい。

自分の現状を肯定するだけでなく、「お前ならもっとやれるだろ!」と、自分をもっと信じたい。

・・・さいごに。

「愛したい」の先には当然、『愛されたい』という気持ちがある。

誰かに愛されたいのならば、その人が満足するような姿になる必要はない。

それは、愛されるためではなく、「好かれるため」にやることだからだ。

自分の変えられない部分は認めて、変えられる部分を、『自分のためが相手のためにもなる』ように努力して、向上させていくことが大切。

そして、誰かに愛されるためにはきっと、自分で自分を愛する必要がある。

「自分に愛される」ためには、自己を受容して、自分を信じきるしかない。

そのままでも大丈夫だよ!と肯定する自分と、もっとできるでしょ!と信じる自分。

・・・ここに、”愛”の本質があるような気がしている。

自分を愛するためには、現状を肯定しているだけでは不十分なんだ。

『渇き』を原動力に、自らの可能性を信じ抜こう。

そうして渇きを潤す過程で、想いは深まり、日々の行動の中で想いがこぼれ落ちていくはず。

そんなことを考えている、30歳3ヶ月です。

・・・読んで頂きありがとうございました(*^^*)

⇓コチラは、30歳の誕生日を迎えた後に書いたnoteです!

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