ケアの海
起きてすぐに行った台所の乾いたステンレスのシンクには、曇ったグラスが4つ置かれていた。
そのほかにはガラスの麦茶のポット。空になってこれも流しに置かれている。
そして向こうの食卓には、半分だけ麦茶が残されたグラスが一つ。
テーブルの木肌には、何かをこぼしたあとが手のひら大に暗い跡を残している。
わたしは白いエプロンの紐をきりりと胴に結ぶ。
リネンのパリッとした手触りが気持ちよい。
その手触りにすこしだけ励まされて、わたしはテーブルのグラスを持ってきて、5つのグラスと麦茶のポットを洗ってすすぐ。
ふきんをすすいでぎゅっと絞ったら、テーブルを拭く。
麦茶のポットに浄水を注いで麦茶のパックを一つ入れる。
お湯を沸かす。
自分のために白湯とコーヒーをいれる。
いつからこうなんだろうか、とつい思ってしまう。
リビングには遅く帰宅した次男の重たそうなバックパックが置かれたままで、夫が昨日ビールを飲みながら本を読んでいたソファ横のサイドテーブルには、グラスの丸いあとがついている。
携帯の充電ケーブルが、携帯はもうささっていないのにそのまま差し込み口に残されている。
いつからこうなのだろうか。
わたしはどうしても考えてしまう。
のろのろとわたしはサイドテーブルを拭き、充電ケーブルを抜いて引き出しにしまう。
これくらいのこと、とわたしは思う。
冷蔵庫を開けると、誰かがこぼした麦茶が半分乾いて固まっている。
これくらいのこと、とわたしは思う。
昨日夫が洗ってくれた子供のお弁当箱は、パッキンがついたままだったので、蓋とパッキンの隙間に水と汚れが溜まっている。
パッキンを取り外して、もう一度洗う。
これくらいのこと、とわたしは思う。
これくらいのことがいくつ集まったら、すさまじいことになるのだろうか。
あるいはこれくらいのことはいくつ集まっても、いつまでたってもこれくらいのことでしかないのだろうか。
わたしは自分の中にある海のことを思う。
海はしずかだけれど、凪いではいない。
わたしが動くたびに、中の水は揺らいで、もう水は少しのことで溢れてしまいそうだとわたしは知っている。
わたしだけが知っている。
かつて、女の海は一生使ってもあまりあるほど広いと思われていた。
いや、思われていたのではなくて、そういうことにされていた。
だから女たちはだまってそうことだというふりをして、風を読み、波をおさめて自分の海をうちに抱えてきた。
わたしはトーストを四枚焼く。
焼き上がったトーストのうち一枚の焼き色がやや濃かった。
理由はないけれど、わたしはそれを自分の分にする。
起きてきた夫が「今日はパンはいいや、フルーツだけもらうよ」という。
そうか、と思う。
思いながらさっき自分にいれたコーヒーを一口飲む。
コーヒーはもう冷めていて、ぬるい。
ぬるいコーヒーを飲み込んで、わたしは食卓にフォークを並べる、皿を並べる。
バターとはちみつを出す。
ケアの海にはほんとうに総量はないのだろうか。
わたしの海は今どれくらいなのだろうか。
あなたの海は今どれくらいなのだろうか。
夫の海ももう溢れそうなのだろうか。
わたしはなぜ人と一緒にいるのだろう。
わたしはなぜ他者と暮らしているのだろう。
わたしは洗いカゴの中のさっき洗った5つのグラスを見る。
グラスはきれいに洗われて、朝の光をそこに集めてひかっている。
わたしはどうしてうまくできないのだろうか。
わたしの海は生まれつき小さかったのだろうか。
本当はちゃんとできるのだろうか。
みんなやっていることだ。
それくらいのこと。
でも幸せでしょう?
家族っていいものだよ。
恵まれているよ。
そんな言葉をわたしは幾度聞いただろうか。
わたしの海のことを再び思う。
海に流れ込む川があるだろうか。
海には風が吹いているだろうか。
かつて人にとって海とは何を流しても、いくら何をしても大丈夫なほど雄大で尽きないものだった。
でもこの100年、200年でわたしたちは知った。
海というものは何をしても浄化して、いつも同じようにそこに必ずあるものではないと。
そうであるならば、女の海も、わたしの海も同じではないか。
わたしの海は今どれくらいか。
あなたの海は今どれくらいか。
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