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くちづけ

変化は毎日すこしずつであるのに、ぼんやりしている間にずいぶんと変化しているものである。

冬だ、とおもっているうちにそこにわずかに春が混じった。
春の気配、とおもっていると、みるみる春になってしまう。
もはやはつなつではないか、とおもうとつばめなんかが飛んでいたりする。

冬のぎゅっとした気候から、春になり夏がきざすころ、世界にはずいぶんと隙間が多いようだ。

あちらこちらに開いているところがあって、そこをつばめは自由に出たり入ったりしているように見える。
わたしもきっとあのようにできるのだなあとおもうと、おもしろい心地がしてくる。

電車に乗った。

電車の窓はあちらこちら少し開けられていて、そこから風がたっぷりと入ってくる。
そして風は再び出ていく。

長い青いシートの左から二番目に座って、ぼんやり外を眺めていた。
向かいの席には若い女性が座っている。
この季節らしい短いスカートにちょうちん袖のブラウスを着ている。
ちょうちん袖のところだけ、生地が透けて中の腕がうすく見えている。
女性は熱心に化粧をしている。

複雑な道具をいくつも取り出し、主に目の周りに化粧をほどこす。
その人はくっきりとした二重瞼であったけれど、下まぶたにも同じようにくっきりとした線が引かれて、なんとなくわたしの視覚がぶれているような心地がしてくる。
一駅、二駅すぎる間に、化粧はずっとほどこされ続ける。

時刻はすでに夕方に差し掛かろうとする頃である。
この化粧は、いつ落とされるのだろうかと思いながら、外の緑をわたしは見るでもなくみている。
ふと長く伸びた彼女の足に目が止まった。
ストッキングに包まれた両足の片方の膝小僧に、擦りむいたあとと、青い打ち身があるのに気づいた。
転んだのだろうか。
ずいぶんと痛そうだった。
足元に目をやると、白いブーツのつま先が痛んで剥げていた。

つらい。とおもう。
わたしではないのに、痛いように思えてくる。
たぶんこの人は平気なのだろうに、なぜかわたしが痛くなる。

わたしの右隣に座っている男性二人組の会話の断片が、ノイズキャンセリングしてリヒテルを静かにかけている耳にまでときおり届く。

「あのプロジェクトの」
「見積もり段階で」
「熱心さが」
「チョッキ」(これは数秒後に「直帰」と変換され直された)
「竹中さんがあのとき」

そして次に、
「くちづけ」
という言葉が耳に届く。

「くちづけ」
とわたしはおもう。

彼らは相変わらず熱心に話している。
「くちづけ」がどうにも気になる。
でももう会話は進んでおり、たしかめようもないので、わたしはだまってくちづけについて考える。

「くちづけ」はとてもウェットな行為だ。
そして同じ意味である「キス」より、言葉としてもウェットだ。

人と人とが口以外の他の器官をつけることはあるだろうか。
「耳づけ」、「鼻づけ」、「手つけ」(これは高額の買い物のおり最初に少し払うお金のようである)、「額づけ」など考えを巡らせるが、どれもはかばかしくない。
そうか、おもったよりも「くちづけ」は特別な行為なのだなとおもう。

ここで「くちづけ」についての集中力は途切れて、ふたたび目の前の女性に注意を向ける。
その人はまだ化粧を続けている。

いいな、とおもう。
とても熱心で、いいな、とおもう。
熱心であるということはそれだけでいとおしい。
隣の男性たちもまだ熱心に話している。
これもまた違うふうにいとおしいとも考えられる。

熱心でないのはわたしくらいで、あちこちに注意の断片を向けながら、ただぼんやりしている。

電車の窓のすきまから、風が吹いてくる。
風はわたしに入って、わたしを出てそして過ぎていく。
わたしまでずいぶんすきまがあるものだ。

わたしというものの境界線が、世界の中にひらかれて、あらゆるものが出入りするさまをおもう。
それは森のまなかにある一本の木のようなものだろう。
あらゆるものが来て、あらゆるものはそれぞれの時にまた去っていく。
木はただずっとそこにある。

わたしはぼんやりするのにも、女の人を見るのにも、くちづけについて考えるのもやめて、かばんの中から新潮文庫を取り出した。
風がページをめくった。

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