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たまごと革靴

ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』にこんな場面がある。

「とっさに衝動を抑えきれなくなったアシマは、その靴に足を入れてみた。持ち主の汗ばんだ感触が残っていて、それが自分の汗と混ざるような気がしたものだから、心臓が全速力で打ちはじめた。いままでのアシマにしてみれば、これはもう男性経験というに近い。革靴はしわがついて、重くて、生暖かかった」
(ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』)

足の大きさは何十センチも違うわけではないのに、少し大きな靴に足を入れるとどうしてあんなにすっぽりと深い感じがするのだろうか。

『その名にちなんで』では、お見合いをした相手の靴に初対面の女性が足を入れてみるのだけれど、わたしが足を入れてみた記憶があるのは父の革靴だ。
父の革靴は黒くて、光っていて、甲のところに小さなきんいろの飾りがついていた。

わたしはまだ小学校に上がる前で、その頃履いたことがあるのは運動靴だけだった。
かかとを揃えてきちんと置いてある靴に、白い靴下を履いた足を入れてみた。

足を入れたらすぐに足のかたちにぴたりとする自分の運動靴と違って、革靴はどこまでも深い。
地面にずんともぐるような、そんな感触があった。
革は足にひたり、と吸い付くようである。
なまあたたかく、よりそうようでいて、どこか離れているようでもある。

両足を差し込んで、少し歩いてみる。
玄関の土間を一歩、二歩と足を進める。
かかとが硬い音を立てる。
靴の中でわたしの足はふだんよりももっとちいさく感じた。
わたしはもとの場所に戻って、靴から足を抜いた。

どうしてそんなことを思ったのだろうか。
わたしは冷蔵庫から、たまごをひとつ持ってきた。

殻のしろい、紡錘型がゆるやかにふっくらしたようなたまごである。
冷蔵庫から取り出したばかりなので、しん、と冷えている。
しん、と冷えてしずかである。

わたしは手のなかのたまごを、父の革靴の片方に入れてみた。
黒い革靴は、しろいたまごをやすやすと容れて、かかとを揃えてつま先を玄関の方に向けてある。

たまごは、黒い革靴のなかでぞんがいしっくりおさまっている。
これまでもこういうことはあった、という風情でじっとしている。

春の夜であった。

家族も家にいたはずだろうに、わたしの記憶では誰の声もせず、ただしずかであった。
月のおぼろに照る晩で、そのぼんやりとした光が玄関のすりガラス越しに土間に差し込んでいる。
革靴のなかにも、その光は入りこむ。

革靴の片方のたまごが入っている方に、ぼんやりとした光が差して、たまごの表面のかすかにざらざらとした質感をきわ立たせる。
革靴の片方の何も入っていない方にも、月の光は差して、黒い内側がかすかに発光する。

底には長細い白いラベルが貼り付けられていて、アルファベットがいくつか並んでいる。
ラベルはやや汚れてよれていた。

わたしはしばらくそれを眺めてから、革靴のなかのたまごを取り出した。
そして両手のひらでたまごをそっと包んで、みんなのいるリビングへと戻ったのだった。

玄関には、わたしが足を差し入れても、たまごを容れても、何も変わる様子のない父の革靴が一足ある。

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