嫌いな人はだれですか?
Meditopiaというアプリを使って、毎日瞑想をしています。
たくさんのテーマのプログラムが用意されており、今日はたまたま日替わり瞑想のメニューの「ジャッジメントのない世界」というセッションを行いました。
このセッションの中で「あなたの嫌いな人は誰ですか?」という問いが出てきました。
「嫌いな人?」
としばらく考えました。
思いつきません。
では前に嫌いだった人がいるだろうか、と考えてみました。
そうしたら一人いました。
それは、わたしです。
わたしはわたしが嫌いでした。
何から何まで嫌いでした。
自分のできないこと、なまけるところ、ずるいところ、利己的なところみんな嫌いでした。
わたしは子どものころから人に喜んでもらうことが好きでした。
小学生のころから共働きの忙しい両親に喜んで欲しくて、家をきれいに掃除して夕ご飯を作って待っていました。
弟や妹の世話をしました。
人に親切にしました。
ボランティアもしました。
気が付いたら、わたしはおいしいものを作ったらそれをみんなにあげたくて、気が付いたら自分の分も残さずみんなあげてしまうような性格になってしまっていました。
わたしというものが、だんだんすり減っていっていたのかもしれません。
誰かに感謝されることでしか、自分を感じられなかったのかもしれません。
それなのに、わたしはわたしをずっと嫌いだったのです。
わたしは今日の瞑想のなかで、わたしをかわいそうだったなと思いました。
そしてお疲れ様とも思いました。
佐野洋子さんの絵本『100万回生きたねこ』を思い出しました。
ねこは100万回も死んで、100万回も生き返りました。
ねこは死ぬのなんかへっちゃらでした。
そしてどの飼い主のことも嫌いでした。
最期に誰のねこでもなかったとき、はじめて大切な存在に出会います。
そしてはじめてねこは死にたくないと思い、最後に死にます。
自分が自分のための存在になれたとき、はじめて人は人を大切にし、愛せるようになるのだと思います。
周りの人のために、自分を削って喜ばせようとしていたかつてのわたしは、自分のための自分ではありませんでした。
そして、表面的には人のために尽くしているようで本当はそうではなかったのだと気が付きました。
わたしたちは子どものころから
「人に親切にしなさい」
「人の役に立つことをしなさい」
と教わってきました。
でも、「自分をまず大切にしなさい」、
「自分を第一にしなさい」
とはいわれたことがありませんでした。
CAだった友人が、
「緊急時には乗務員はまず最初に自分の酸素を確保する」
と言っていました。
自分を優先して初めて人を助けることができるのだ、と。
わたしという存在が満たされたとき、コップから清水が湧き出るように自然に愛はあふれるのではないでしょうか。
人に親切にしなくてはいけない、人を優先しなくてはいけないという教えからは「義務」や「べき論」が透けてみえます。
わたしは今、わたしが嫌いではなくなりました。
好きになってきました。
だから初めて本当のgiveができるのだと感じています。