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わたしという檻の話

客観視は主観ですよね。自分を、あたかももう1人の自分が見ているかのような、客観的な視点。つまり——

私の意見
 他人のように見る私の意見
  判断する私の意見
   判断を受け入れる私の意見
前提にある何らかの偏り

改めて確認すると、我々は気がついて努力しなければ、偏りが強くなるように、出来ているのかもしれません。

社会は個人で出来ており、個人は社会を前提にして育ちます。だから、何らかの偏りは、その「社会」の「主観」と言えるかもしれません。

主観を遠ざけたドキュメンタリー作品であっても、カメラの視点や編集などに判断の足跡は残りますが、詩歌と比較すれば個性は控えめです。その詩歌の抽象度に科学を持ち込み、客観的な光を当てると、哲学になりますね。

個性は、なかなか抜け出すことの出来ない、「主観という檻」の一要素だと思えるのです。「檻」から出るのではなく、主観と客観を上手く統合することで、多角的な視点を得て自由になる時、成長しますね。

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