見出し画像

私の父は私が30歳の時に61歳で食道がんと上咽頭がんで亡くなった。最期は長年住んでいた町の山の上のホスピタルで穏やかに迎えた。7月末の暑い夏の日の事だった。

父を語る上で必要なアイテムが幾つかある。それは背広と万年筆と包丁とウイスキー。今で言うスーツじゃなく背広。ハイボールじゃなくニッカの角瓶をロックに近い水割りで呑んでいた。晩年にはアル中だったのか、癌の痛みを和らげる薬だったのか、水のように呑んでいた。父との記憶は悪い事もあるが、葬儀の後に極身近な者だけで父の話しをし出したら、笑い話しになるエピソードばかりだった。本当にエピソードだらけの人生を送った人だった。


泣かないと思っていたのに真夏の中での葬儀で泣いた。その涙は、父を慕って最期に葬儀に来てくれた方々の顔ぶれを見ての涙だった。本当に泣いたのはそれからしばらくして突然だった。一番守っていてくれていた親を亡くした悲しみだった。それと癌を治せなかった敗北感だ。今の医学では無理だとわかった絶望と失った大きな背中。いつまでも父の背中は大きかった。そう気付いた時に寂しさや悲しみで涙が止まらなくなってよく独りで泣いていた。


父は板前だった。和食の職人。いつも自前の包丁を丁寧に新聞紙と風呂敷に包み、カバンに入れて職場へと通っていた。職質を受けるといけないからと、きちんと調理師免許を持ち歩いていた。仕事着は真っ白な割烹着だったが、通勤着や出かける時は背広を来ていた。背広のズボンは自分でアイロンをかけるほどピシッとした線が入ってないと気に入らない神経質で几帳面な性格だった。ズボンにシワが入るのも嫌がった。背広は今の様なサイズのあった出来合いではなく、昔だったせいかオーダースーツだった。隣の家がクリーニング店ということもあって、よく出しに受け取りに行った。あのクリーニングの匂いもオーデコロンの付いた背広の匂いも今でも覚えている。

父とは子供の頃からよくデートをした。いつの日か腕を組んで歩いた。だからか、彼氏ができた時に腕を組むのではなく、恋人繋ぎで手を繋ぐ事に慣れるまで違和感があった。恋人繋ぎは子供っぽくて、レディとしての扱いに乏しく感じた。後スーツを着てない事も正直不満だった。セーターって何?そんな女に育ててしまう風が父にはあった。


外食先では厳しかった。お箸が使えるか使えないか位の歳からナイフとフォークは当り前に使える様に躾られた。躾は総て本番のレストランでだった。ファミレスなどあまりなかった時代もあってかレストランだった。外食先で騒いでいる子が居ると耳元で「あぁなってはいけないよ。」と厳しい目付きで教えられたから怖くて騒げなかった。それよりも子供ながらに大人扱いを受ける事に鼻高々になっていた。『私はあの子とは違うのよ!ほら見て、ちゃんとお父さんと同じ様にナイフとフォークがつかえるもの 』そういう子供だった。父の教えはどんな所で食事をしても恥ずかしくない様にという気持ちからの躾だったが、少しばかり行き過ぎていた。

記憶は薄くて今では勿体ない気持ちになるのが、幼少期にお寿司屋のカウンターでウニや大トロやブリを当時の価格で4~5万食べたという語り部である。父は板前だったので安い寿司屋ではなく結構ちゃんとした寿司屋に連れて行ったらしい。そこで私は大人以上に食べたという話しを時々聞かされていた。そして出来上がったのがまんまる太った体型だった。幼少期の写真を見るとまんまる3等身かという体型をしている私が笑って写っている。父が躾以外で育てたのは、そのまんまるとした体型だった。それでも目に入れても痛くないでしょ、父にそっくりだと周りの大人たちから言われ続けた。


板前の父が一番長く務めた場所は当時、とある会社の宴会業を行う施設で働いていた。宴会の人数は多い時で200人前の宴会料理を父と2名のパートのおばさんでこなしていた。舟盛りに天麩羅、先付けにと一通りの料理を提供していた。だからか、誰かのお祝いや何かの集まりがあるという話しがあると家でも大皿に刺身盛りを造る事も少なくなかった。その姿を狭い台所で見ているのが大好きだった。そのせいかイカとアジのさばき方だけはいつの間にか出来ていた。ただし、私の味覚は母の手料理で出来ているので味は母似だと父に言われた。


父の世代は万年筆に憧れた、万年筆ブームがあった生まれだった。だからなのか父は太い万年筆を持っていたし、達筆で筆まめだった。随分と小さい文字でも手帳に何やら色々と書き込んでいる人だったし、お品書きなど達筆さが求められる職なので何処かで努力していたのかもしれない。

私は父の修行時代も知らなければ、話を聞く機会もなかった。苦労話よりも、父は豪快で、ちょっと間違った正義感を振りかざしている話しの方が似合っていた。肩で風をきって、昭和を生き抜いた人で。だからかもしれない。父が癌に奪われたのが悔しかったのかもしれない。もっともっと後々なら笑える困った話しを見せて欲しかったのかもしれない。がしかし、父の母である祖母は言った。

「お父さんは、あの時死んで良かったよ。あのまま生きていたら(この世の中で生きるのは)大変だったよ。」

が口癖になっていた程だった。

父には平成が合わなかったのかもしれない昭和な男だった。

父のエピソードはまたどこかで、この時代のコンプライアンスに則って機会があればにしたいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?