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映画『劇場版RE:cycle of the PENGUINDRUM 後編 僕は君を愛してる』感想 ありがとう

「この薔薇があなたに届きますように」

エンドロール後の映像を目の当たりにして、思わずこの言葉を思い出しました。



以前、前編の感想でも書いたんですけど、今回の劇場版を見るにあたって自分の中に少し不安があったんですよね。

変わってしまった世界。
変わってしまった家族。
変わってしまった私。

10年前心に深く刻まれた物語を、私は再びきちんと受け止められるのか。

ただそれは、作品そのものに対する不安というよりは私自身の問題だったわけで、作品内にその答えを期待するものではない。要は、私の気の持ちようだろうと考えていました。
たとえ後編の展開がどうであろうと、2022年のピングドラムの物語として、2022年の私の感じ方を素直に受け止めよう。
そう自分を納得させて、不安は断ち切ったつもりでいたのです。
まあ、そんな理屈をこねて言い聞かせている時点で断ち切れてないんですけど・・・笑

しかし驚くべきことに、この後編ではそんな私の押し殺した気持ちを図ったかのような展開が待っていました。
不安を吹き飛ばしてくれるような力強い映像は、立ち竦む私の背中を押すように。
そして、不安を慰撫するような温かな希望に満ちた描写は、震える体をそっと抱きしめてくれるように。

10年の時を超えても感動が色褪せていなかっただけでも嬉しかったのに、最後にこんな愛に溢れた展開が待っているなんて望外の喜びです。

以下の感想では、このあたりの終盤の新要素を中心に、後編を振り返ってみたいと思います。

ただ、書きたいことを書いていたら随分長くなってしまいました・・・。
同じような話を繰り返してたり、すごく冗長でまとまりのないことになっています・・・。
でもそのまとまらなさも含めて今の正直な気持ちなので、これはこのまま書き残しておきたいと思います。
ご容赦ください。



OP映像

始まって数分でいきなり涙腺が崩壊したのが、この新規OP映像でした。
全く予想していなかったので、いきなり殴られたみたいに衝動的に泣いちゃった。
でも、あそこで感動した人多かったみたいですね。
劇場版専用のOP映像を作ってくれたんだってだけでも嬉しかったんですけど、桃果や少年の冠葉と晶馬の姿が出てきたらなんかすごい泣けてきたんですよね。
それにゆりも多蕗も真砂子も、子供の姿で出てくるじゃないですか、何かあれを見た時に失われた子どもたちへの眼差しみたいなものを勝手に感じ取っちゃって。それであの最後の浜辺のシーンがあるからまた驚きなんですけど。

あと高倉兄弟と陽毬が勢いよく走るシーン。あそこも良かったですね。
りんごが手前に流れていくからすごく前への推進力を感じました。
「少年よ我に返れ」のOPでも走るんですけど、背景が流れないからどこにも行けない閉塞感が強いんですよね。それに三人ともバラバラの方向に走っていくので。
やっぱりここも映画を最後まで見ると、ソラの孔分室を駆けていくシーンを彷彿とさせるじゃないですか。そのシーンでは冠葉と晶馬の2人なんですけど、でも彼らの心のなかにはやっぱり陽毬が一緒にいるんだろうなって。
そういうことを想像させられましたね。


再編された物語

前編に続き、この後編もキャラクターごとにシーンをまとめる形で編集しなおされていました。
特に、前編の最後に登場した眞悧を最初のパートに持ってきていたのは大胆で印象的でした。16年前の桃果との対峙はTVシリーズでは23話で明かされます。桃果を大きくフィーチャーしたこの劇場版では、彼女のゆりや多蕗との友情、そして眞悧との対立関係を早めに提示しておくことにしたのかもしれません。

この眞悧パートの後、ゆりと桃果、多蕗と桃果の回想エピソードが続きます。
TVシリーズではゆりと多蕗それぞれのエピソードの閑話休題として16話『死なない父』17話『許されざる者』がありました。(閑話といいつつめちゃくちゃぶっ飛んだ回でしたが・・・笑)
そこには、視聴者に毎週見続けてもらえるよう重たいエピソードが続かないようにという配慮があったそうです。しかし今回はそこを連続して描いた。続きを見てもらえるか気にする必要がなく、強制的に見せることができる映画ならではの構成だと感じました。
その分、キャラクターたちの切実さがより強調される形になり、とても感情移入しやすくなっていたと思います。

また、キャラクター同士の関係性もとてもわかりやすく、16年前の事件の被害者である桃果とつながる苹果、ゆり、多蕗の三人と、加害者家族である高倉家の三人の構造が強く印象付けられました。
交わらない2つの集団、その橋渡しとして晶馬と苹果がいるんですね。
ゆりと多蕗のエピソードに入る前に、まさにその晶馬と苹果が往来でセリフを交わすシーンがあります。
「僕たち家族が徹底的に不幸になって、駄目になるのを見届けるまで監視を続けるんだ。みんなそうだった。みんな僕たちから離れていって。僕たちは、兄妹だけで生きるしかなくて」
「わたし、そんなんじゃないよ。わたし、そんなことで晶馬くんから離れたりしないよ。陽毬ちゃんのことだって大好きだし」

平和に仲睦まじく過ごしてきたように見えていた高倉家の三人が、いかにこれまで周囲から迫害されてきたかということを想像させる重要なセリフです。
そして、このシーンからあまり間を置かずに多蕗の復讐シーンにつながることで、その後にやってくる身を寄せ合う3人の姿が、先程のセリフによく呼応していると感じられました。
3人はこれまで何度もこうしてきたんだろうと。
そのたびに冠葉は兄として、弟と妹を守ろうと必死になって傷ついたんだろうなと。
さらに苹果がそんな3人に寄り添うという構図も、先ほどの晶馬に一度拒絶されたやり取りのあとにやってくることで、表面的なものではないことが伝わってきます。
晶馬と苹果がすれ違うシーンとここのシーンを繋げて考えたことがなかったので、このあたりの再構成は見事だなーと感じました。

ところでこの晶馬と苹果が道端で出会うシーン。
苹果が唐突に「もお〜、すごい待ったんだぞ☆」と言い出した理由の説明が劇場版だとないんですよね。そのあと晶馬に突き放されて泣き出すから、めちゃくちゃ情緒不安定な子に見えるっていう・・・笑
前編で苹果の必死感というかクレイジーさというか、そういう側面が強調される編集になってましたけど、ここもその延長線上にあるように見えたのがなんか面白かったです。


トリプルH

さて、そんな前編のギャグ満載のテイストからは打って変わって、ヘビーな展開が雪崩のようにやってきた後に満を持して登場するのが、田島太雄さんの手掛ける新作実写パートでした。

ここの映像がまずとんでもなく格好いい。痺れます。
高速道路とか高層ビルがよく映っていて、全体的にすごく硬質で重厚感があるんですよね。
人が全く映らないんですよ。前編は実写風景の中に冠葉と晶馬がいたんですけど、ここでは徹底して無人。夜の風景に無機物しか映らない映像はなんだか冷たい感じがしました。
ただ、映像に込められた意味を解釈しようとするのはちょっと難しかったですね。高速道路や高層ビルのほかに霞ヶ関が映るのも印象的だったので、戦後のこの国の発展、そしてそれを主導してきた政府。そういうものに批判的な眼差しがある気がしました。
というのも、ここでかかるAFTER '45という曲の歌詞にそういうニュアンスがあるんですよね。1945年以後の世界にあってなお、この国を冷たい夜が覆っている。

それにしてもこのAFTER '45という曲が、それはもうめちゃくちゃ良かったですね。
傷ついた四人が身を寄せ合うシーンでイントロが流れ出し、大きなドラムの音とともにノイズ混じりの「だから私のためにいてほしい」という言葉が映し出される。
まさにTVシリーズで経験した、エンディングでサブタイトルが映し出されるあの演出のリフレインなんです。
TVシリーズでは灰色の水曜日のTVオリジナルVerのあの最高にエモーショナルなイントロが流れたんですけど、今回のAFTER '45もまったく遜色ありませんでした。

そのほかのトリプルHの新曲もとても印象的でしたね。
陽毬が高倉家を出ていくシーンでは、16歳の少女の死を歌ったJust a 16が。
冠葉がテロ行為に走るシーンでは、愛を知らない男が殺人に走る様を歌ったMURDER GAMEが。
どちらも曲も詩も素晴らしかったです。
劇伴も含め、改めて音楽の力が大きい作品だなと思いました。


桃果という異質な存在

改めて見るとやっぱり20話にあたる陽毬と晶馬の出会いのエピソードはとても密度が濃くて、私はこのあたりが本当に大好きですね。
「選ばれないことは死ぬこと」
「私の人生に果実なんてない」
「初めて待つことが嬉しいと思えた」
「選んでくれてありがとう」
どれも陽毬のセリフですが、この作品のテーマを突く言葉がどんどん出てきます。
どのセリフも構成している言葉自体は、私たちの誰もが知っているようなありふれた言葉じゃないですか。それがつながって文章になると、とても印象的なセリフになる。
声優さんが口にした時の音やリズムも含めて、映像だけではない言葉のセンスが卓越しているところも、幾原作品全体に通じる大きな魅力だなと改めて思いました。

あと今回劇場版で桃果の描かれ方が少し変わったことで、桃果と陽毬の対比イメージも自分の中で少し更新された気がします。
ゆりや多蕗はかけがえのない存在である桃果を失った。そして今、高倉兄弟は陽毬という存在を失おうとしている。
状況は似ていますが、一方的に与えてくれる桃果という存在と、予め何も与えられず、晶馬によって初めて与えられる経験をした陽毬という存在は実に対照的なんですよね。

桃果という人間は確かに誰にとっても救いになりえるけれど、あまりにも存在の強度が強すぎる。その揺るぎない一方的な愛は、救われた人間に場合によっては狂信的な危険思想をもたらしかねない。無償の愛に一方的に救われたゆりと多蕗。対して、自分の中にあるわずかなピングドラムを分け合い生き延びてきた高倉兄妹。
カルトとしてはっきり描かれるのは企鵝の会ですが、桃果もまたその神性ゆえに人を狂わせる存在になりえるんです。やはり彼女は眞悧と綱引きをする寓意的な存在なわけですね。呪いの体現者である眞悧に対立する、救いの体現者でしょうか。
しかしその一方で、彼女は現実として苹果の姉であり、ゆりや多蕗の友人だった。ここの概念的存在と現実的存在のバランスが、TVシリーズでは自分の中であんまりすっきりしなかったんですよね。予め失われた子どもたちが多く登場する本作ですが、やはり彼女の存在はその中では異質すぎるので。

そこに関して、今回の劇場版では桃果の人ならざるもの感がより強く描かれていると感じました。前編の冒頭から、彼女はソラの孔分室の司書として登場して、作品世界を超越した存在として冠葉と晶馬を導く女神のようでした。
まあ正直このあたりは受け手の解釈の余地があるので、どちらが良いということもないんですが、個人的には今回の塩梅の方が好きですかね。

そして、劇場版を見終えた今、桃果という存在は実は『輪るピングドラム』という作品そのものを体現するものでもあるのかもしれないと、そんなふうにも感じました。(このあたりについては最後の方に触れています)

いよいよここからは、とても印象的であり感動的だった終盤の展開に触れたいと思います。


存在証明

さて、構成を変えながらも物語はTVシリーズと同じ展開を辿っていきます。そして、いよいよ運命の乗り換えに至るというところ。やはり多くの人が着目したのは、ここをどう扱うのかというところだったんではないでしょうか。
すなわち、妹のために兄が犠牲になるという「自己犠牲」のシーンです。

『さらざんまい』以後の世界にあっては、そこに別の解釈可能性を直接的ではないにしろ付与する可能性は確かに想像できました。要するに、自己犠牲による救済という手段に対する批判的な視点ですね。
ただ断っておくと、(前編の感想でも書きましたが)私は燕太のあのセリフは決して先行作品の否定ではないと考えています。そもそも『輪るピングドラム』という作品が自己犠牲を称揚したり美化したりする作品ではないと思っているからです。
このあたり、うまく説明できる自信がないのですが、今回の劇場版でそのあたりが自分の中でも言語化しやすくなったので、後ほど触れたいと思います。

前置きが長くなりました。
では結局劇場版の結末はどうだったのか。
兄が愛する妹を救い、運命を乗り換えたあと高倉家に冠葉と晶馬の姿はない。その展開に変わりはありませんでした。ただ一方で、このシーンのもつニュアンス、読後感はTVシリーズと大きく異なっていました。
変化を感じた理由として大きいのが音楽の使い方です。
HEROES〜英雄たちのかかるタイミングですね。
TVシリーズでは23駅のED、シラセとソウヤ、そして眞悧のセリフにオーバーラップする形でかかっていました。(ここ、眞悧のセリフがめちゃくちゃかっこいいんですよね・・・最終回への橋渡しとしてテンションがブチ上がるお気に入りのシーンでした)
それもあって、社会が作り上げた幸福という幻想を葬り去るというニュアンスが浮かび上がり、眞悧らテロリズムの思想に寄り添った歌にも聞こえました。
しかし今回は、愛の循環に気づいた冠葉と晶馬が陽毬と苹果のために犠牲になるシーンで曲がかかります。これには驚かされました。兄が犠牲になり消えてしまうことの悲しみや切なさは残しながらも、彼らの行為が英雄的なものだという力強い肯定があるように感じられました。
大局的な運命を前にした人の無力さではなく、その運命を自ら選び取った個人の選択に重きを置いている。自己犠牲愛を描いた耽美的な作品であると揶揄されてきたことに対するカウンターであるようにも見えました。

事実、ソラの孔分室にいた少年の冠葉と晶馬は見つけるのです。己がなすべきことを。
それは、この物語の結末を書き換えることではありません。
自分は陽毬の兄であると高らかに宣言することです。
すなわち、それが存在証明であると。


きっと何者かになれる

前編の感想でも書きましたが、TVシリーズを見終えたとき、彼らは何者にもなれなかったと私個人は受け取りました。
ただそれはあくまで、私たちが往々にして思い悩む「この社会における何者でもない」という意味においてです。
社会において有用な存在、他者よりも卓越した存在であることでしか居場所を得られない。その強迫観念がもたらす孤独感。自分はこの社会において何者でもない、透明な存在であるという自己否定感。
その感覚で捉えれば、やはり彼らは何者かになれなかったと言わざるを得ない気持ちになりますが、所詮それは狭義の意味での「何者か」です。
そんな外から与えられる「何者か」になれなくても、愛や罪や罰を分け合うことで他者と繋がり、運命の果実を誰かと分け合うことで、どうにか透明な嵐に負けず生き延びていくことさえできれば。
その先でいつか、自分は何者かであると言えてしまう日が来るのだと。
「きっと何者にもなれない」という恐怖に耐え抜いた先で「きっと何者かになれる」はずだと。

しかしこれはTVシリーズを見たときに私が勝手にそう解釈しただけでした。
劇場版の前編を見たときに桃果の「きっと何者かになれる」というセリフを聞いた時でさえも、そういうニュアンスだったら嬉しいなと期待しているに過ぎませんでした。

だからこそこの後編において、同じ結末でありながらも、自らが何者であるかを高らかに宣言し、それこそが存在証明になるんだというとても前向きな描き方に変化していたことがとても嬉しかったのです。
私の身勝手な願望に、それでいいんだよと頷いてもらえたような、そんな胸のつかえが下りるような気持ちがしました。
しかもそのニュアンスの変化を、話の展開を変えることなしに、物語を読んだ少年が確信に満ちるという形で表現されていたのがまた嬉しいんですよね。その位相のズレみたいなものには、間違いなく物語を受け取る私たちの存在が意識されている。

そんなスクリーンのこちら側に対する意識というのも、この時点ではまだ私の勝手な解釈に過ぎないのですが、さらにこのあと新たなもう一つの確信に姿を変えます。
私が恐らくこの後編で最も感情を揺さぶられたシーンです。


僕は君を愛してる

さて、2人の少年は己のなすべきことをみつけました。
そんな彼らを、桃果は砂漠の上に立って誇らしげに見送りました。
(この何かが崩壊したあとのような砂漠のシーンを見ると、つい劇場版少女歌劇レヴュースタァライトのラストシーンが頭に浮かんじゃいましたね・・・列車は必ず次の駅へ)

再び画面はTVシリーズと同じ光景に戻り、運命を乗り換えたあとの世界を映します。
陽毬は事件をきっかけに苹果と仲良くなりますが、そこに冠葉と晶馬の姿はありません。高倉家の外を2人の少年が通り過ぎていきます。愛について語らいながら。
「どこへ行きたい?」
「そうだな・・・じゃあ・・・」
そうして向かった先は、あの砂浜でした。
初めて家族揃って行った潮干狩り。
その砂浜で、陽毬は迷子になります。
「怖かった。世界に私一人だけが取り残された気がした」
そんな陽毬を、冠葉と晶馬は必死に探して見つけ出しました。
「私あの時わかったんだ。私は見つけてもらえる子供になれたんだって」
誰かに見つけてもらえる喜び。
あの黄昏の砂浜はその象徴だと思います。

冠葉と晶馬だけではありません。
そこにはゆりも多蕗も真砂子もやってきました。
予め失われた子どもたちが、ずっと見つけてもらえなかった陽毬のもとにやってくるのです。
そうして彼らはその身を寄せ合います。
驚くべきは、その後でした。
「愛してる」
子どもたちが一人ずつ、そう言葉にして語りかけるのです。
スクリーンのこちら側、すなわち観客である私たちに目を合わせて。
先ほど私は、ソラの孔分室の構図にスクリーンのこちら側が意識されているように感じたと書きましたが、ここでは遂にキャラクターたちが直接語りかけてくれるのです。
それも、あの再会の砂浜で。

見つけてくれて、ありがとう。
たぶん、これがそういう気持ちなんだと思います。
TVシリーズを見た私が勝手に感じて勝手に感動していた気持ちに、10年越しのアンサーのようにキャラクターたちが言葉で応えてくれた。
これほどの喜びがあるでしょうか。
ここまでのことを私は望んでいなかった。
そんな身勝手な思いが報われるなんて、想像もしていなかった。
だって私は、その言葉がなくたって、この作品から沢山の愛を受け取っていたんです。
私にとっては『輪るピングドラム』という作品こそが運命の果実だった。
キャラクターたちの行動は、まさにそのことの証左です。
この作品はあなたに果実を届けようとしているんだよ、という表現。

運命の果実を分け合う。
確かにそれは美しい響きです。しかし、それでは自分の人生に果実なんてないと絶望する、陽毬のような子供はどうすればいいのでしょうか。
檻の中に果実を見つけた冠葉。彼はたまたま誰かに愛された経験があったからその果実を見つけることができたのでしょうか。
そんな経験があったとしても、信じられなくなったり忘れてしまったりしている人だって大勢いるはずです。
この作品との出会いによって、自分の中にあった果実に気づく人もいるでしょう。でも見つからない人だっている。探すことに疲れてしまう人だっている。気づいても見て見ぬ振りをする人もいるかもしれない。
だからこそ、この作品は輝くのです。

「君と僕は予め失われた子どもだった。でも世界中のほとんどの子どもたちは僕らと一緒だよ。だからたった一度でもいい。誰かの愛してるって言葉が必要だった」
「たとえ運命がすべてを奪ったとしても、愛された子どもはきっと幸せを見つけられる。私たちはそれをするために世界に残されたのね」

つまり『輪るピングドラム』という作品がまさにそれをしてくれているということです。
檻の外にいる誰かに果実を届けようとしてくれている。
この作品こそがあなたの果実になるのだと。
私はそう受け取りました。


自己犠牲

ここまでにも何度か書きましたが、とにかくこの作品には自己犠牲という言葉がつきまといます。
ただ上でも書きましたが、『輪るピングドラム』という作品では、決して自己犠牲が肯定的に描かれてるわけではないと私は思っています。

冠葉は自分の命で陽毬の命を贖おうと必死でしたが、それが最後まで受け入れられないことに苦しいんでいました。そして、おそらくこの作品に最も自己犠牲的なイメージを与えたラストシーンにおいても、冠葉は逆に愛を受け取っています。このひたすら与えようとしていた者が、逆に受け取るという部分はとても重要だと思います。
さらにいえば、冠葉と晶馬はたしかにガラスと灰になりますが、死んだわけではなく少年に姿を変えて同じ世界を生きています。(特に今回の劇場版で最後に2人が水族館にいた描写はこのことを伝えたかったのではないでしょうか)

桃果はまさしく無私の愛の体現者ですが、彼女によって一時は救われたゆりも多蕗も、その後絶対的な救済者の喪失に堪えられずにいました。
たしかにその救済は美しいものとして描かれています。
だって、そういうものがあればと、願い縋りたくなる気持ちは否定できないじゃないですか。
でも、それは結局美しい棺なのかもしれません。そこに手を出すとどうなるか。ゆりや多蕗、冠葉はどうなったか。
人にはエゴがある。その大前提失った自己陶酔的な自己犠牲は人の手にあまるものだということではないでしょうか。(「少年よ我に返れ」っていうのはそういう意味もあるんじゃないですかね)
そう考えると、燕太のあのセリフも、決してこの作品と矛盾、あるいは対立するものではないと思うんですけどね。。。

すみません、話がそれました。

つまりこの作品では、無私の愛がすべてを救う展開にはなっていないのです。考えてみれば、高倉兄妹が巡らせた果実も丸々一個ではなく、割れた形をしていましたよね。与える主体も得ているものはあるんです。

ではなぜこんなに自己犠牲的なイメージがつきまとうんでしょうか。
おそらくそれは、この作品が痛みや苦しみを多く描いていたからです。

そもそも、自己犠牲という言葉における自己ってなんなんでしょうね。
体? 命? あるいは思想や尊厳?
結構人によってイメージが違うんじゃないでしょうか。

幾原監督は過去のインタビューで「愛は痛みである」という趣旨の話を何度かされていました。
わたし達は誰かと関わるうえで、自分の形を変えざるをえない。
つまり、他者と関わることは大なり小なり痛みを伴うものであり、こと愛においてそれはより切実なものとなります。
わかりあえない他者との関係の中で、まず自分が変わってみる。そういう愛の形を考えた時、自分というハコの中から外に出ようともがく苦しみの中で失われるもの。
それも、ある種の自己犠牲ではないでしょうか。

つまり、この作品で描かれる自己犠牲にはグラデーションがあり、行き過ぎた場合の問題も描かれているということなんです。
であれば、そこから浮かび上がるのは、問題解決メソッドとしての自己犠牲精神の推奨ではなく、その前提となる自己と他者の断絶という問題意識そのものではないでしょうか。
誰かを愛し、誰かに愛されることの難しさ、わからない他者に正面から向き合うことの恐ろしさ。
そういう生きづらい世界の景色を共有しようとしてくれたんだと、私は受け取りました。

まあ、これはあくまで私の個人的な解釈です。
でも最後に陽毬が冠葉を抱きしめて言うじゃないですか。
「大丈夫だよ、痛くないでしょ」って。
このセリフはそういうことなんじゃないかなって、思うんですよね。


運命の果実

果実とは結局何なのか。
自分の中できちんと言語化したことがなかったのでそれも書き留めておきたいと思います。

もちろん人によって解釈がわかれるところなので、これが正解というつもりはないです。もし不快に思わせたらごめんなさい。といっても全然特殊な解釈ではないと思ってるんですけど。

基本的には愛のニュアンスだと思ってるんですよ。
でもそれは純粋な他者愛でもなければ、ましてや無私の愛でもないんじゃないかっていう。いや、そういうのも含まれるとは思うんですけど、それだけじゃないんじゃないのかなと思うんですよね。
人が生きていくために必要なモノであり、仮にそれが愛だとしてそれが自己を向いているか他者を向いているかはあまり関係がないんじゃないかと。いや、本来それは不可分なものだと思うんですよね。
誰かに肯定してもらうことで自分を愛せることもあれば、誰かを肯定することで自分を愛せることもあるし、それは逆もそうじゃないですか。
分け合うという行為にはやっぱりそういう双方向のニュアンスがあると思うんですよね。

だからその愛は、利己的なものでもいいし、無私の愛の真似事でもいいんだと思うんです。だって、高倉兄妹は生きることを罰だと感じ、どんな小さな罰も分け合って生きていたんです。
「僕たちの愛も、僕たちの罰も、みんな分け合うんだ」ってそういうことですよね。
私たちが人と何かを共有する時に躊躇するのは、それがポジティブなものじゃなきゃっていう思い込みが多少なりあるからだと思うんです。まあ何がポジティブかっていうのも難しいですけど、少なくとも相手にとって利があると思えるものじゃないと関係を続けるのが難しい。消費されるキスってそういうニュアンスなのかなって思うんですけど。
だから、愛も罰も分け合うっていう思想の作品における果実が、そんな清純なものだとは思えないんですよね。
私たちが自分というハコの外と繋がる可能性があるとすれば、そうして誰かと何かを分け合うしかない。そういう分け合えるものが、総じて果実なんじゃないでしょうか。
だから最後の冠葉がそうだったように、分け与えられたものを受け取ることだって大切なんです。その分け合う行為は、二者間で完結するものではない。誰かと果実を分け合った経験がいずれ巡り巡ってくる。輪るピングドラムってのはそういう世界観なんですよね。

しかし、この世界には絶対的に果実が足りていません。
この世界の子どもたちのほとんどが、予め与えられていないように。
冠葉のように頑張って探したら見つかるのかもしれません。忘れているだけで、自分の中にも果実はあるかもしれませんしね。
でも、果実といったって形があるわけじゃないし、結局のところそれは誰かと分け合ってみて初めて、自分の中にもあったんだって気づくものなのかなとも思うんですよね。
つまり内面的な変化だと思うんです。それを信じてみるっていう。

だから、いきなり誰かに分け合えって言われても難しいと思うんですよ。誰かに自分の考えを大きく揺さぶられることってなかなか無いじゃないですか。
その意味では眞悧のいうこともすごく説得力がある。共感できるんです。人間が一生ハコの中から出られないっていう話は。果実なんてあるはずないって言いたくなる気持ちはよくわかる。
じゃあ、結局のところ果実は自分の中から生み出すしかなくて、そのエネルギーの源泉になる誰かの愛が必要で、やっぱりそういう意味でのピュアな果実っていうものが必要なんじゃないかって。

自分の中から生み出すっていうのは、ある程度真実だと思うんですよ。晶馬が最後にそうしたように。
でもそれは錯覚でも妄想でも勘違いでも、一時の気の迷いでもいいんだと思うんです。だって、誰かの行動が純粋な愛だったかどうかなんてわからないですし。それも結局は自分の解釈がつきまとう話で。
それに、誰かに与えられなくても、自分で果実を見つけることだってあると思うんですよ。

そう、たとえば、特別な物語に出会ったりして。

その物語に触れた人が、誰かに手を伸ばしてみよう、何かを分け合おうと思えたら。そういう世界の景色を共有できたら、それってとてもすごいことじゃないですか。
それはもはやただ果実の循環を促しているだけではなく、物語に触れた人に果実を与えているに等しいことだと私は思います。
この作品そのものが、誰かの最初の果実になるかもしれないということです。

そしてまた、こうも思うのです。
物語が贈る愛こそ、人には成し得ない、無私の愛たり得るのではないかと。

途中でも書きましたけど、この作品の在り方を象徴する存在が、無私の愛の体現者たる桃果なのでは、と私が感じたのはそういう意味なんです。
だから、観客に目線を向けたこの劇場版で桃果が前面に出てくることには、すごく納得感があるんですよね。
そうしたフィクションの持つポジティブな力の象徴である彼女だから、図書館の司書だったのかもしれないなと思うんです。
最後に少年の冠葉と晶馬が地下から地上に戻って、陽毬に愛を伝えるシーンがあるじゃないですか。あそこで彼らを押し上げるのが、大量の本だったのは、そういうエネルギーを与えるものとして物語の持つ力みたいなのを表現したかったじゃないかなって思ったりしました。


ありがとう

随分長くなってしまった。
一体だれがここまで読むんだろう。。。
でも自分としては気持ちが色々と整理できたので、書いてみて良かったなって思います。

それにしても本当に不思議な感覚ですね。
10年前に出会った作品が、こうして新たな形で生まれ変わって、懐かしくも新しい感動を与えてくれる。
去年はエヴァがありましたけど、自分にとって運命とも言うべき特別な作品が、2年続けて形を変えて終わりを告げるとうのは、どうも変な感覚です。
でもエヴァともまた違う感覚なんですよね。
やっぱりそれは、お話の骨格はほとんど同じであるというところが大きい気がします。

初めて『輪るピングドラム』に出会った日から10年が経って、だんだん見返す回数も減っていって。
いつの間にか自分も周囲も、色々と変わってしまってて。
あの作品は自分にとって何だったんだろうって。
まさに何者か忘れた少年ですよね。

だから、それを確かめたかったんだと思います。
そう、確かめる。
確かめられたんです。
「間違いなんかじゃない」
冠葉と晶馬がそう言うじゃないですか。
あれ、すごく嬉しかったんですよ。
そうだよな。間違いなんかじゃないよなって。

生きているとやっぱり不安になるんです。
いつか呪いに追いつかれるんじゃないか。
果実なんてどこにもないんじゃないか。
もしも見つけられたとしても、それを誰かと分け合うことなんて自分にはできないんじゃないか。
明るい場所を探して歩きながら、それでも歩みを止めそうになる。
自分の存在の軽さに堪えられなくなる日々。

それでもこの作品は力強く肯定しようとしてくれたんです。
運命に翻弄された子どもたち。予め失われた子どもたち。
私なんかよりもずっと切実な問題を抱えた彼ら彼女らが、私なんかに目を合わせて言ってくれるんです。
「愛してる」と。

苦しいけど一緒に生きていこう。
このくそったれな世界を。
私はここにいるから。
大丈夫、何度だって呪いを払ってみせるよ。
だから、またここから始めていこう。
いつかきっと、何者かになれるから。

この劇場版との出会いにより、私にとって『輪るピングドラム』という作品は、そういうアンセムになったのでした。


ありがとう。

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