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映画『エゴイスト』 問題はエゴではなく

誰かを愛そうとすれば、相手の幸せについて考えざるを得ない。

自分にとっての幸せさえ定まらず不確かなものなのに、他人の幸せを理解することなんてほとんど不可能だろう。雲をつかむような話である。
それでも、願ってしまうのだ。
あなたと一緒にいたい、あなたに必要とされたいと。
たとえ、何もわからないまま終えていくのだと、心のどこかで気づいていても。

その苦悩に見合うだけの報酬は、多くの場合約束されていない。
夢見るような合一は果たされず、問題をよりややこしくしただけの徒労に終わることがほとんどだ。
私たちが悩んでいるのは、その感情的な収支の割の合わなさであって、愛の定義などではないのかもしれない。

しかし絶望する必要はない。
間違えたとしても。
受け入れられなかったとしても。
たとえ、共に歩む道を見いだせなかったとしても。
あなたが誰かのために真剣に向き合い苦しんだのなら、その愛はきっと相手に伝わるはずだと。
龍太の母が言っていたのは、そういういことじゃないだろうか。



あくまで私個人の好みだが、愛とは自ら分け合い、譲り合い、与えようとするその在り方のことだと思う。
自分の一部を相手に委ね、自分の快楽原則から外れた相手の原理を受け入れること。(≠自己犠牲)

浩輔が、龍太やその母に対してやっていたことも、一見してこれに当てはまるのだが、彼が与えていたのは金とモノだった。
それは浩輔にとっての快楽原則だ。
たしかに彼の行為をありがたいと感じる人もいるかもしれない。だが、龍太にとってはどうだっただろう。
売りをやめて”真っ当な”仕事についた自分を、他人の金で生きていく自分を、果たして彼はどう感じていたのだろう。

根深く繊細な問題であるほど放っておくことは難しいが、同時にそういう問題ほど当人の中で複雑なバランスを保っていて、他人が介入して本質的に改善させることは困難だ。
そのバランスは本人でも説明しがたく、何をもって改善と考えるのかの出口さえ曖昧だ。
時間をかけて話し合えば糸口はつかめるかもしれないが、その時間を作れるか、どこまで心を開くかは相手次第。こちらの思いだけではどうしようもない。


しかし、浩輔が金やモノを与え続けたのは、決して余裕のあるものがないものに示す第三者的な態度などではなかった。
我慢ならないのは、耐え難いのは、誰だったのか。
そうしなければ自らを保てないほど追い込まれていたのは、浩輔の方だったのではなかったか。
龍太の母に金を包んで渡す場面では、どちらが施しを受けているのかわからないほどだった。
浩輔が地元に帰ったときのモノローグを聞けば、彼がなぜそうしたわかりやすいモノを必要としたかはおよそ想像がつく。
困窮にあえぐ龍太とその母の姿は、浩輔に古い鏡を見ているような感覚を与えたのかもしれない。


そんな浩輔のエゴは劇中では最後まで糾弾されずに進んでゆく。基本的に彼の愛や善意は受け入れられるのだ。カメラワークや空間の演出、そして俳優の演技が醸し出すリアリティにも舌を巻いたが、そんな他者の距離感と冷たい優しさもまた、とてもリアルなものに感じられた。
そして、ことさらテーマ性を前面に押し出さず、私たちの心に深い影を落としたまま静かに静かに終わりゆく、ドキュメンタリーのような空気感も秀逸だった。



たしかに、浩輔の振る舞いはエゴイスティックだったかもしれない。
しかしエゴは常にそこにあり、いつだって向き合わなければならないものだ。
エゴそのものが問題なのではない。
誰であってもエゴとは無縁ではいられず、どんな関係でも常にその苦悩はつきまとう。
この映画で描かれた愛の複雑さや難しさは、決して同性愛固有のものではなく普遍的な話なのだろう

そして、だからこそ思うのだ。

浩輔に強迫観念じみた価値観をより深く植え付けたのは。
龍太にとって普通に生きていくことをより困難たらしめたのは。
この社会に根深くはびこる抑圧の空気ではないのか。

誰もが抱える普遍的な問題を、差別や偏見によってより一層困難にして生きづらさを助長している社会は、是正されてほしいと思う。
思うが、果たして何から変えていけばよいのだろうか…。

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