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【岐阜県】公立小中→(高校受験)→大垣北・浪人→京大経済 教育ログ1人目

0.今回は京都大学合格の教育答え合わせさん

→公立高校から京都大学経済学部に合格されたカラシカシさん。今改めてご自身の教育を振り返った結果はこちら!

「現役で楽に合格していれば100点、浪人でもスムーズに合格していれば80点という基準で採点しました。勉強に対する意識が色んな意味で低かったことが減点の大部分で、これは小中学生の時の過ごし方でもう少しなんとかなったのかなと思ってます。」と語るカラシカシさんの教育答え合わせに迫ります!




1.回答者略歴


Q:お名前を教えて下さい。
→カラシカシ(H.N)

Q:年代を教えて下さい。
→40代

Q:ご自身の幼少期のキャラクターについて教えて下さい。
→クラスの中心ではないものの、仲の良い友達の間では「お調子者でひょうきんな奴」だったと思います。
 
Q:ご自身の性格について、以下の観点でお答えください。

Q:最終学歴を教えて下さい。
→京都大学経済学部
 
Q:そこまでのルートを教えて下さい。
→公立小・中学校→(高校受験)→大垣北高校→一浪(代ゼミ)

Q:大学合格時点での学習能力の自己採点をお願いします。

※6要素で15点以上となるように配分をお願いています。

Q:ご自身の各学習能力に関してどう考えていますか?

→全体としては平均的な京大生よりも低いと思います。

その中で、①自走力・自律性の低さ、これは先天的な性格によるものが大きいので仕方ないのかなとして、④勉強に対してのストレス耐性が低いこと⑥関心範囲の幅が狭かったことは、これはもう少し成長過程の中でなんとかなったのかなと。というのも大学の友人達は、自分よりももう少し勉強を楽しんでいたように感じたので。
 
一方で僕が合格できた最大の要因は特殊な家庭環境でした。「京大」が絶対的な進路になっており、それが勉強の持久力・耐久力につながっていたこと、これに尽きます。卒業後10年くらい2、3月になると落ちる夢を毎年見ていたので、よっぽどの強迫観念だったんだと思います。
 
Q:教育の得点配分を教えて下さい。

Q:得点配分の意図を教えて下さい。
→両親の教育方針も含めた幼少期の教育がやはり大事で、そこで大半が決まるなと感じました。

ただ小学校までで難関大学までのルートが確定してたかというとそんなこともなくて、中学での可変要素もそれなりに大きいと思います。高校以降は、子供の意思と基礎学力が固まっていれば、なんとかなる気がします。


2.保護者の教育スタンス(配点25点)

Q:ご家族の最終学歴について教えて下さい。
→父:京都大学法学部
 母:京都大学農学部→名古屋大学医学部(社会人経験後に再入学)
 兄:京都大学経済学部
 姉:九州大学大学院

Q:保護者の教育方針はどのようなものでしたか?
→両親ともに「好きなことを一生懸命やりなさい。特にやりたいことがないんだったら勉強を頑張るのも一つの道ですよ」という教育方針でした。

 僕の場合は「絵を書くこと」が好きだったので、家でずっと絵を書いてたりしてて、それはよく褒められた気がします。
「特にやりたいことがないんだったら勉強を頑張るのも一つの道だよ」は、俗にいう「勉強しなさい」を、もう少し合理的なニュアンスで提案調にした表現だったんだと思います。
 
Q:その教育方針はご自身の学業にどう影響したと思いますか?
→「勉強しないといけない」という気持ちに、ある程度『自発的』にさせられました。

 絵を描くのは好きでしたがそれほどのレベルではなかったので、「じゃあ、自分は勉強を頑張るしかないんだな」と消去法的に勉強を選んだ感じはありました。(両親がそこまで計算していたかは分かりませんが。)

Q:ご両親は学業に関してどんな接し方でしたか?
→母は僕の学習状況を適宜確認してそれなりに口を出していました。父は子供を信頼して見守る体を取りつつ、たまに「あくまで私の意見だが…」という感じで、進んで欲しい方向性を匂わせていました。
 
両親ともに基本は教育方針の通り「子供の自主性に任せる」スタンスでしたが、母からはかなり頻繁に「ゲームばっかりしてないで勉強しなさい」と怒られた記憶があります。

父は、母とはスタンスが異なり、頻繁に口を出したりすることがありませんでした。ただ「最終的にはちゃんとやるんですよね。信じています。」的な発言はよくしていました。口調は柔らかいですがプレッシャーは重いですよね。
 
両親は大学進学に関する考え方も少し違っていました。父は京大に強いこだわりがありましたが、母は「関西出身で勉強が出来たから京大行った」という感じだったので、「別に京都大学にこだわる必要はない。」という考えでした。

Q:今振り返って学業につながった、家庭内の文化や習慣があれば教えて下さい。
→①言葉遊び
父は非常に堅い職業についていましたが、ダジャレが好きでとてもユーモラスな人でした。そんな父は笑点の大喜利が大好きで毎週必ず見ていて、その流れで、言葉遊びみたいなものをを頻繁にやっており、それは語彙力につながった気がします。

→②漫画
父が「美味しんぼ」や「家栽の人」といった漫画が好きで買ってきてて、それを僕も暇な時に読んでいました。どちらも大人向けの漫画ということもあり、社会問題などの概念を理解する上で良かったのかなと思います。

→③食事中の会話
父は食事中によく自分の仕事や子供の頃の勉強の話などをしてくれました。仕事については概略を噛み砕いて説明して、子供たちの感想や意見を聞いたりしていました。勉強については、とにかく量を勉強したという類の話を聞かせてくれました。

→④調べる
これが影響としては一番大きいかもしれません。父はとにかく何でも調べる人でした。子供からの何気ない質問にも少しでも不明点があれば百科事典などで調べて答えてくれました。また旅行にいった時なども、タクシーの運転手さんに、地名の由来や歴史、産業構造など気になったことを色々聞いていました。子供ながらに「何かを知るとはこういうことなのか」と感じた記憶があります。


Q:ご両親の教育スタンスについての小計を教えて下さい。

→完璧な満点かと言われると違和感ありますが、具体的な減点ポイント、改善案が出にくいなと思いました。

自主自立を促しつつ、学業で困らないための最低限の管理をしていたのが良かったと思うのと、父と母が「北風と太陽」的にバランスが取れていたのも良かったと思います。これはどこまで意識的にやっていたかは不明ですが。

そして、経済的に余裕がある家庭だったことも非常に大きかったと思います。習い事をはじめ学業につながるもので、お金を理由に断られたことがないのは、かなり恵まれた環境だったなと思います。


3.~小学校時代※小学受験含む(配点40点)

Q:小学受験はしましたか?

→してないです。全く考えていなかったと思います。

父が転勤族だったということと、母が「子供のうちは色んな人と関わる経験をするべきで、公立の中学に行かせた方が良い」という考えの持ち主で、大学までは私立に行かせることに否定的でした。

Q:小学校の頃の学業成績について教えて下さい。


→いわゆる『神童』と呼ばれるレベルからは程遠かったと思います。また、小学生にして浮き沈みもかなりありました。

低学年の頃はかなり賢いほうだったと思います。母方の祖母が家で公文教室をやっていたんですが、保育園の頃から長期休みになるとそこに行って、算数のプリントをやったらお小遣いがもらえるというシステムがあったんです。それで自然と勉強をすることに馴染みが出来てたことが大きかったと思います。
 
小学校3~4年生の頃は引っ越しで学校が変わり、少し不登校気味だったのも影響して全然勉強できなくて、テストで40点とか50点とかそんな点数も取っていました。「会心の出来!」と思ったテストでその点数なので相当頭悪かったんだと思います。
 
高学年になってからはどの教科も90点以上を取れるようになっていました。勉強のやり方が漠然と分かってきたんですかね。それでも、いわゆる地元で「神童」って呼ばれるレベルの賢さでは全くなかったです。友達や先生からも「凄く賢いね!」的な褒められ方をされた記憶はありません。

Q:小学生当時の勉強への意識はどのようなものでしたか?

→自発的なものがメインで、それにある程度の圧力も加わって勉強に向かっていました。

 基本的には、新しいものを知る喜びとか、テストで良い点数を取る快感で勉強していました。それに加えて、「(上2人の兄弟ように)アナタも勉強頑張るんだよ?」という有言無言の圧みたいなものも勉強の原動力になっていましたね。

Q:小学校の教育環境についてはどう考えていますか?

→概ね良かったと思います。

 いわゆる『当たりの先生』が担任になることが多く、恵まれていました。
また、自分が相対的に出来が悪いわけでもなく、かといって特別優秀というわけでもない立ち位置も良かったと思います。

すこぶる悪かったら腐ってた可能性もあるし、特別優秀だったら慢心していたリスクもあるなと思いました。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

計算ドリルや漢字ドリルなどの学校の宿題を微妙に『やりきらない』感じでした。答えの書き写しなどもそれなりの頻度でやっていた記憶があります。
中学年から勉強時間が増えているのは後述する公文の分です。

Q:小学校まで習い事は何をやっていましたか?

Q:学習貢献度の高い習い事について、始めたきっかけを教えて下さい。

→進研ゼミは小2の時に「兄弟がやってるから自分も」と、公文は小4くらいで「これをやれば成績が伸びるはず!」という気持ちからやりました。
 
公文は「兄と姉が勉強が出来る要因は公文をやってるからで、自分もそれをやれば賢くなれる」と公文に理由を求めたんだと思います。進研ゼミも同じ理由で「僕もやりたい!」と言って始めたんですが、こちらは続かなかったですね。最後は母がやって出してました。

Q:習い事についての振り返りをお願いします。
→勉強につながったという意味では公文だけ。プラスマイナス3つの側面があったかなと思います。
 
1つは計算力です。計算に対しての免疫、粘り強さがついたなと思います。教室でも宿題でも凄い量の計算問題が出されるのでかなり鍛えられました。

2つ目は数学に対しての自信です。小学校卒業時点で中2くらいまでの単元をやっていたので、確固たる得意科目が出来たというのは、後から考えると凄く大きかったのかなと思います。

3つ目は、これは決して「公文の批判」という形で受け取ってほしくないのですが、『数学=計算』だと捉えてしまった節があったなと思います。
高校数学は各単元の概念を深く理解していないと、文章題が全く解けないのですが、それは実は中学数学から始まっています。でも、僕は勉強を早く終わらせたいという気持ちから、「速く解ければ、それで良い」と作業的に解いていました。

Q:今振り返ってやればよかったと思う習い事は?
→学習塾に早くから行ってればなと。

ただ、家庭内に「勉強の仕方というのは自分で自然と見つけるものだ」という空気感があり、現実的には小学校で塾に通うのは難しかったです。

両親も兄も姉も塾に行くことなく勉強が出来ていたので、「塾=勉強の表面的なものを教える場所」であり、出来れば行くべきではない『邪道』という考えがあったかなと思います。

Q:小学校までの読書について教えて下さい。
→小学校卒業するまでに100冊程度だと思います。

保育園の年長さんの頃に、恐竜や魚の図鑑を4~5冊。これは何度も何度も読み返していた記憶があります。
小学校に入って怪傑ゾロリなどの児童書を30冊くらい。
中学年でシートン動物記やルパン・ホームズなどのスパイ推理小説を合わせて60冊ほど読んでいたと思います。高学年はほとんど読んだ記憶がないです。

定期的に本を読むようなタイプではなかったのですが、一度何かのジャンルや作家にハマると、何冊も集中的に読むようなところはありました。

反省点としては、色んなジャンルの本を読んでおくべきでした。国語の試験で小説が苦手だったことと、興味関心の幅が狭かったことはここに起因している気がします。

Q:当時熱中していたことは何ですか?それは学業にどう影響しましたか?→ゲームですね。

ドラクエやFFなどのRPGゲームをやっていました。学業への影響で言うと、熟語表現などを多少は覚えたかなというのはありますが、所詮は雀の涙程度です。

一方で、ゲーム自体がそんなに悪だとも思っていなくて、頭を使って遊べば勉強に活きる部分もあったかなと思います。でも、僕の場合は「レベルを上げて物理で叩け!」という脳筋プレイだったので、ただ勉強時間の圧迫になっていただけでした。

Q:小学校時にに学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?
特にないです。

Q:小学生時代の教育環境の小計を教えて下さい。

→まずまず及第点といったところですね。

減点ポイントしては、小学生時点で「勉強の仕方」を学べれば良かったなというのと、興味の幅が広がるように色んなジャンル・テーマの本を読んでいれば良かったかなという点。勉強の効率が悪い、勉強があまり楽しくない、という弱点の克服はここらへんにカギがあった気がしています。

4.中学時代※中学受験含む(配点25点)

Q:私立の中学受験は考えましたか?
→こちらも全く考えなかったみたいです。

Q:中学行時代の学業成績について教えて下さい(全7レベル)

→中学入学当初は結構よかったと思うのですが、1年生の時は微妙でした。

中1の最初の定期テストは500点満点で370点くらいで、それ以降もコンスタントに80点以上取れたのは数学くらいで、他はかなり波があり、90点以上の高得点を取った記憶がほとんどありません。1学年240人くらいの中で5~60番くらいで、学区の進学校である大垣北高校に入ろうと思うと学年30番くらいに入ってないと難しかったので、マズイ状況でした。

中学2年生の時も学校の成績は変わらずでした。ここで、母はかなり危機感を感じていたみたいで、地元の塾に入ることを強めに提案されました。色々と塾の評判を調べていたみたいで、「面倒見がいいみたいだし、ここの塾がいいと思う」といって勧められました。僕の性格を踏まえた上での塾選びだったものと思われます。
 
中3になって塾に入ってからはすぐに成績が上がり、第一志望の進学校に受かるレベルになりました。それでも学年トップとかではなく、クラスで3~4番目くらいの成績でした。

Q:中学生当時の勉強への意識はどのようなものでしたか?
→「テストでいい点数を取りたい!」の意欲と「勉強しないと…」との義務感がほぼ半々でした。

Q:中学校の教育環境についてはどう考えていますか?
→「当時は何も思わなかったけど、微妙な所も多々あったか気がしてきた」です。

 学校の先生は20%くらいの割合で微妙な人がいたなと思いました。やたら英語の歌を歌う勉強を押しつけてきたり、国語のテストが独特すぎたりと、教える側の能力に疑問符がつく人は一定数いた印象です。また学校がそこそこ荒れていたので、勉強以外の部分で頭を悩ませるシーンが多かったです。

一方で、小学校同様に自分より勉強が出来る人がそれなりにいたのは良かったです。「負けたくない」という気持ちがそれなりに働いていました。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

→塾に入る前は、学校の宿題をダラダラやっていました。学校からの宿題は毎回一応やっていたと思います。ただ、本当に形式的にやってるだけで、あまり身になることを意識していなかったと思います。
塾に入ってからは、テストプリント→復習のサイクルが定着して、勉強効率が上がったと思います。

Q:中学校時の習い事について何をやっていましたか?

Q:それぞれの習い事は後々活きたか活きなかったかについて教えて下さい。
公文については先に説明した通りです。この頃には計算地獄のような問題に辟易としてしまっていました。嫌々やってると勉強効率は落ちますよね。

 塾については成績がかなり上がりましたね。その要因としては、①正しい勉強の仕方が少し分かった、②勉強時間が増えた。この2つが大きいです。
「理解不足のポイントを探して、それを一個ずつ潰していく」というテスト勉強の作業を塾は丁寧に教えてくれました。

勉強時間の増加については、自習室にいって勉強するスタイルが自分にはハマったみたいで、机に向かうのがそれほど苦じゃなくなりました。
それから、僕は分からないことがあった時に「教科書読み直して理解するのは面倒くさい」と思うタイプで、疑問をすぐに聞ける人がいつもいるというのも塾の良かったところですね。

Q:中学時代に学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?
中1の時の担任の先生には、生活態度か何かで怒られたついでに「君は中学では伸びない」と言われました。何を根拠にそう思ったのか聞いておけば良かったです。 

Q:中学校時代の教育を振り返ってどう評価しますか?

結果的になんとか第一志望の高校には進めたものの、3年間で勉強へのネガティブイメージが強まっていたなと思います。

中1最初の定期テストの結果が戻ってきたタイミングで塾に行ってれば、
「勉強を楽しむ」の域は望めなくとも、「勉強のストレス」は幾分下がった気がします。
親としては「自力で勉強できるようになってほしい」という気持ちが少なからずあり、僕も上の兄弟と同じようにそうなりたいとは思っていましたが。
中学までにそれが出来なかった子が、中学で自然と出来るようになるのは難しいですよね。


5.高校(&浪人)時代※高校受験含む(配点10点)

Q:私立の高校受験は考えましたか?
→考えませんでした。
 
東海地区だと滝高校、東海高校が進学校であるのですが、単純に僕の学力が足りていませんでした。その2校より偏差値にして2~3落ちる学校に行くのに四苦八苦しているような状況だったので、考えもしなかったですね。

Q:高校時代の学業成績について教えて下さい(全7レベル)
※僕の時代は1学年で360人で、ざっくり上位15%前後が東大・京大・国公立医学部にいけるような感じの学校でした。

→入学早々「勉強を一生懸命頑張るのはダサい」という思考になってしまい、学年320番くらいまで一度落ちました。流石にこのままではヤバいと思って、150番くらいまでは上がりました。が、このレベル感で満足し、そのまま高3になり、現役の時は京大は前・後期落ちました。
 
浪人しても夏の模試でC判定×2、B判定×1と成績は良くなかったのですが、後述する兄からの言葉を受けて遅まきながら本気の本気の勉強のスイッチが入りました。自分の弱点・課題を見つめ、苦手な勉強要素(苦手な単元や暗記といった行為)と向き合ったことで、入試直前の1月くらいに成績がグッと上がりました。

Q:高校以降の勉強への意識はどのようなものでしたか?
→「勉強しないと…」の義務感が6~7割だったと思います。

もちろん高得点を取りたい!という気持ちもなくはなかったのですが、義務感や恐怖感がベースでした。

Q:高校の教育環境についてはどう考えていますか?
→「今思えば、かなり整っていた」です。

1~2人くらいは高校の学習範囲を教えるに足る学力・指導意欲がない人もいたのですが、基本的にはしっかり教えられる先生方でした。生徒側のモチベーションさえあれば、いくらでもきめ細かく教えてもらえていたかと思います。

周りの学友も基本的にはかなりポジティブに影響したと思います。地頭が良い人が多いというのはもちろんのこと、学習意欲や志望する大学のレベルが高いことで切磋琢磨しやすい環境でした。
 

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

→学校からいろいろ宿題が出ていましたが、やったりやらなかったりでかなりいい加減でした。その遅れをテスト前で取り返そうとするんですが、相当な量なので取り返せるわけもなく途中で心が折れて諦めていました。

Q:高校以降はどんな習い事をやっていましたか?

Q:それぞれの習い事はどう活きたか教えて下さい。

→高校時代の塾はどれも質自体は良かったと思うのですが、僕の勉強のモチベーションが低かったので効果としては薄かったです。逆に、勉強の意識が高くなってきた浪人時は、上手く活かすことが出来たかなと思います。
 
中学からお世話になってる地元の塾では、京大入試の英作と数学の回答を見てもらっていました。英作は「なぜこの答えではダメなのか」など表現のニュアンスについて、数学は「模範解答にのってる解法はどういう思考で着想するのか?」などを納得するまで聞いていました。今考えるとかなり面倒くさい質問ですが、「お前は面白いなぁ」といつも笑顔で対応していただいた2人の先生にはただただ感謝です。
 
代ゼミでは勉強に対する意識が少し変わりました。
勉強をエンタメに昇華させていた先生が多く、本質的な意味じゃないにしろ、「勉強って楽しい」と思える時間がありました。

Q:高校以降に学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?

①母からの言葉
高校の合格発表の帰りに母から言われた「中3で塾に通い始めて成績がダメだったら、もう諦めようと思ってたのよ」という言葉。
「こんなハレの日になんてこと言うんだ!」という戸惑いとともに、「勉強出来ないと、こんな風に思われるのか…」とゾッとしました。

今思えば、僕の学力を父よりも具に確認している分、心配も大きかったんだろうなと理解しています。

②兄からの言葉
浪人の夏の京大模試の結果がすべて芳しくなかったのですが、それを兄に電話で報告したところ、「もうお前は京大は諦めた方がいい。これ以上そこに向かって努力しても傷つくだけだ」という旨の言葉をかけられました。

「もし京大に落ちたら家族の中での劣等感を一生引きずっていくのか…」と強烈な恐怖感に襲われました。
(なお、この時、悲しさで逆切れして「お前にそんなこと言われる筋合いねーんだよ!このクソ野郎が!」といって電話を切り、大学合格時まで絶縁しておりました。その後、無事和解。兄からは「あれくらい言わないと、甘ちゃんのお前は頑張らないだろうと思ったから」と意図を説明されました。)

Q:高校以降の教育を振り返ってどう評価しますか?

→1年余分に時間をかけて志望校に入れたものの、過程としてはかなり問題があったなと思います。

「勉強に対してストレス」を感じていることをもう少し早いタイミングで認め・受け入れ、その上で対処策を考えればよかったのかなと思います。

「自分は勉強が得意→勉強が好きであるハズ」という謎の変換とマインドコントロールによって、勉強への取り組み方を根本的に見直す機会がなかったことが一番の反省点です。

6.編集後記

まずは、最後まで読んでいただきありがとうございます。
この答案者のカラシカシは、「私の教育答え合わせ」の企画者でございます。

そもそもなぜこんな企画を始めたかを少し説明させていただきます。

僕自身、現在3人の子供がおり「これからどう育てていこう?」と考えた時に、『基本好きなことをガンガンやっていって欲しい』と思いつつも、「学力もあるにこしたことないよね」とも思っています。

一方で、僕自身の学力醸成の過程はお世辞にも褒められたものではないなと思っており、じゃあ「学力ってどうやったら『いい感じに(自然に、なおかつ楽しく)』身につくんだろう?」という疑問が。そこで、勉強が出来た人達の教育過程を知りたい!となったのがこの企画のスタートとなっています。

そして、その情報を他の方から引き出すためには「まず自分の答え合わせをサンプルを拙例として出すしかない!」と#1を書かせていただきました。
趣旨に賛同していただける子育て世代の方、是非答え挑戦してみてください!

よろしければサポートお願いします!サポートしていただいたお金は答え合わせ協力者のへの謝礼にあてさせていただきます!