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運動を導くデザイン

20201113

1ヶ月ほど取り組んでいたZINEの編集がそろそろ終わる。このところは中々に飽きてきていたので、やっとって感じではある笑

ワークしながら、自分の中でデザインの新しいボキャブラリーが見つかるとうれしくなるので好きか嫌いかで言えば、好きなんだとは思う。

ただ、1日2時間以上同じことやらないっていうMyルールをなしでやらないとなペースだったので、単純にやりすぎてた。妻と娘にも迷惑かけてたことでしょう。

そのペースというか、進め方、スケジュールを自分で作るようにするのが、今後の反省点だろうか。

誌面を整えながら、これは運動の、目や手、思考の運動のキッカケづくりだなと思う。

洒落てるかどうかより、何かを読みああでもないこうでもないと考える、その一連の運動のための触媒。そういうつもりで、誌面をデザインしようとしてる自分に気づく。

おしゃれかどうかより、誌面の白黒の分量、目の留まりどころと流れ方が気になる。これは書でも共通することかもしれない。

完成されたモノではなく、相対する者の運動の導き手としてのデザイン。

その手引きのために、洒落た見た目、よい意味での違和感を与える図像が必要なことはあるだろう。

ただ、僕にとっては、それは目的にならないことを知る。

動くこと、そのキッカケにさえなればいい。

そしてそれは、編集作業の進め方でも同じだったなと思う。DTPの担当だったから、いかにすぐれた見た目を提示できるかが重要だったんだとは思う。

ただ僕自身はそこに興味がなかった。

完成形なんて提示しなくていい。
自分の提示したものはあくまでキッカケであり、それに触発されて、こんなのがいい!と気づいてもらえればそこからさらにブラッシュアップできる。

そのプロセスを大切にしたかった。あくまで結果も大事なのだけど。

自分の力の誇示とか、カッコつけようとすると、バチッと答えを見せたくなる。ドヤっ!と言いたくなる。その状態だと、人からもらった意見とかに何を!って気分になっちゃう。

日々自分を愛で続けてるからか、娘や妻のおかげか、自分の力を示さないとっていう力みがほとんどなく、取り組めていた。ような気がする。

昔では考えられないような、自分の変化が見られてうれしかった。

他者との出逢いは、こうして自分の中の他者との出逢いになる。もしくは、自分が他者として変容する。

そんな出逢いを与えてくれたお誘いに感謝(まだ終わってないけど)。

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