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もがく

20210625

「あなた方は研究室で虫を拷問にかけ、細切れにしておられるが、私は青空の下で、セミの声を聞きながら観察しています。
あなた方は薬品を使って細胞や原形質を調べておられるが、私は本能の、もっとも高度な現れ方を研究しています。
あなた方は死を詮索しておられるが、私は生を探っているのです。」

と、読んでいた本に書いてあった。『ファーブル昆虫記』のファーブルの言葉だそうな。

僕はこれまで動物やら昆虫やらの生き物ってやつに関心がほとんどなかった。それが少しずつ変わったかもなと思うようになったのは、娘が生まれたり、犬を飼うようになってからだった。

いやもっと無意識のうちに変化があったとすれば、鍼灸師になると、妻が東洋医学を学びだしてからかもしれない。

このファーブルの言葉は、僕が妻から聴く限りで、東洋医学の身体の捉え方にダブる。ついでにいえば、このファーブルの言葉がでてきた本、池田善昭・福岡伸一『福岡伸一、西田哲学を読む』の生命についてのやり取りも、東洋医学的だった。

東洋医学的というか、そのつどの我が身なりにああでもないこうでもないともがく身体と、すこぶる馴染みがいい。

西田幾多郎の哲学は原文のまま読むのは難解極まりない。それを福岡伸一の研究と照合して読みあわせていく。

西田の言葉がめざすところは、言葉でありながら、大方の人が慣れ親しんでいる西洋由来の理性(ロゴス)とはちがった言葉なのだという。それはソクラテス・プラトン以前の、存在そのものをめざす立場、自然(ピュシス)の言葉なのだと。

これらのやり取り、見取り図が、東洋/西洋問わず、哲学の歴史、学問としてどう受け取られるのかはわからない。ただとても刺激的に読めた。

このやり取りが、今こうしている生きているあるいは死んでいる存在そのものへと、どうやって実装されるのだろうかという疑問を抱えたまま。
なんやかんやのうれしさを、ファーブルの話とともに、妻に話す。

「ファーブルの伝記を読んだことがあるんだけど、ファーブルってすごいバカにされてたみたいで。人が虫を観察してたかで、虫が倒れたんだって。それを死んだフリだとするのが定説だったみたいなんだけど。ファーブルはずっと観察して。ある時、ファーブルが近くにいるのに動き出した虫がいて。

それで、死んだフリじゃない、気絶してたんだ。っていう説を唱えたらしいの。それが大笑いされたって話で。」

死んだフリが定説ってのは、生き物は生存のために合理的な選択をするとか、そういったことがベースにあったのかなあと思ったりする。

それはある流行に重きを置いて、その身にやってくるもの(目の前で動きはじめる虫)を置き去りにしていたのかも。

この身にやってくるものの、微細さに気づくためには、繰り返し観察するしかないのかもしれない。繰り返しても何も変わらないかもしれないけれど、繰り返さないことにははじまらない。

実装とはそのつどの発見であり、発見とは繰り返しの観察からうまれる。

力まず、ひたすらに、心地よいことに、日々励む。

そんな日々の鍛錬が、生命が生命たらんことを、身体が身体たらんことを、不安定なままに確かなものにしていく。

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