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先人の遺産としての思い込み

20200826

たまに不安になって妻にきく。

僕「あすかのフォロワーの人とかが読んでくれるような言葉を使ったがいいかなあ」
あすか「うーん、タカが一番書いてて楽しい言葉を、読んで楽しめる人はいるから大丈夫だよ。」

そう言ってもらい、謎の勇気をみにつけ、今日も書く。

文体について考える。

文体は鍛えあげるもので、これはたぶん、ストレッチの可動域みたいなことかなあと、僕は思ってる節がある。体のバランスの具合というか。

ストレッチとその都度の気づきによって、可動域が変わったりして、その都度のバランスが変わる。

言葉もおなじで、ストレッチと気づきのつみかさねで可動域が変わる。その可動域によってうみだされるバランスみたいなのが文体かなと思う。

すこし前に読んだ、岡崎乾二郎「先行するF」(『抽象の力』所収)がとても刺激的だった。

夏目漱石の文学論に“F+f”という理論がでてくる。

fはfeeling。情緒。感じるところの入力情報すべて。
Fはfocus。焦点がさだまったような印象。観念。

無数に存在するfが集合・統合され、焦点があたえられたFとなる。

これだけみると、“f→F”と言えそうなのに、“F+f”としてるのはなぜだろうか、と不思議におもえる。

岡崎はこのfとFの扱い、集合に、文学・文体の存在をみる。

言葉、個々の単語は、すでにFとしてある。記号としてあらかじめ意味を共有されたモノたち。
単語Fの組み合わせで、情緒・感情としてのfをつくりあげる。

それが文学であろう、と。

そこで次なる疑問。

すでに凝り固まったはずのFがならべられた中で、どうやってfがうまれるのか。

そこで登場するのが、文体。
単語と単語の連結のしかた、言い回し、様相。

いろんなFをもちいてどんな姿にしたてていくか、それが文体であり、それによってfがうまれる。

Fは言葉、+は文体、fは感情、F+fでできているものが文学、とでもいえるだろうか。

ここでおもしろいなあと思うのは、文学は小説などの文芸作品ってよりは、僕たちの認識している世界そのものだなということ。

焦点のあたえられたF、言葉は、よくもわるくも固定観念、思い込みであるということ。

ニュートンでもアインシュタインでも、どんな天才が発見発明したものでも、必ず固定された思い込みとして存在する。

先人の遺産としての思い込みを、こねくりまわして、新しい感情fがうまれる。

そして、それはF+fとして、次の世代の思い込みFとなっていく。

ここで+、文体は、先人の遺産Fのこねくりまわし方としてある。

ストレッチと気づきで、すでにある自分自身の体と心に刺激をあたえつづけるみたいに。

ぼくの文体を、より変えていくのであれば、先人の遺産Fに対するリスペクトを、より強くよりしなやかにしていくといいのかもとおもったりする。

書道のリズム、筆さばきにあるような、繊細さと大胆さ。

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