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書は人なり

20210115

2020年、新しくはじめたことの一つは、筆を持ち字を書くこと。書だ。

当初は、大切にしたいと思った言葉を血肉にしたいなあと思って自分で筆ペンとかで書いてみたりしていたけど、なんかしっくりこないなあとってことで書道教室に通いはじめた。

当初の目的とはズレて、筆使って体動かすの楽しいやん...って方向性のまま、1日1時間ほど、とりあえずなんとなく書き続けてる。

教室で課題をもらったり、先人の字をお手本として真似してみたり、ロゴだったりで使おうと書いてみたり、自分で書いてる文章の表題を書いてみたり。

このところは、表題の字は、目を瞑って書いてみてる。

すると、あっなかなか自分では書こうと思っても書けないいい感じのやつ!ってのから、うわっこれは自分の趣味としては受け容れがたいなってモノまで、いろいろ書けちゃう。

その時に決めてるのが、書き直さないこと、これはダメだと捨てないこと。

書き直したり、ダメだと捨てたい感覚には、どこか外から降ってきた基準がベースにあるんだと思う。

それが良い悪いではなくて、そういうベースとは違うところで、呼吸している場面を大切にしたいなあと思ってる。

書は人なり、みたいなことよく言うけど、ただ文字を書いているだけなのに、たしかにそこには制御しえない身体、その瞬間瞬間の奇跡がある。ってことはなんとなく掴めてきた。

それらの奇跡に優劣をつけたくなくて、できるだけ捨てないように、ダメと決めつけないようにしてる。

それは、捨て猫や捨て犬の譲渡会で、どの子かを選ぶってときの罪悪感に似てるんだろうと、勝手に思ってる。

いくつかの命が目の前に並べられる。
それらの中から、みずからの趣味で、選ぶ。
そのことに伴う、ぎこちない気まずさ。

生きて活動している限り、譲渡会に似た状況はいくらだってあるんだと思う。

生命にまつわるためらいを飲み込まないとやってはいけないのは重々承知の上で、違和感をキャッチできるチャンスがあること、キャッチできるだけのエクストラがあることは、どんなにありがたいか。

何かを極めんとする深さとはちがう、ついついやっちゃうことに担を発する、伸び伸びとした広がりを確かに享受してる。

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