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共感と感動

20210921

サラリーマンを辞めて、個人で動きだしてから、1年と半年ほどになる。

前の会社を辞めるって決めてから、実際に辞めるまで、3ヶ月とちょっとあった。辞めますってことだけ伝えて、辞める時期は会社の都合に合わせますよって話をした。それで引き継ぎやら、仕事の区切りやらをかんがみて、そうなった。

その3ヶ月間、いわゆるビジネス本というか、社会人ってやつはこういう考えをインストールした方がいいみたいなものに手当たり触れていた。

働いていた会社は、いわゆる会社とは異なっていたように思う。そこでしか働いたことのない僕が、違うとか言っても説得力の欠片もないけれど、まあ違ったはず。

世の多くの会社との違いに順応してというか、違いに甘えてというか、社会人らしきが学ぶであろうことをほとんど触れぬまま、在籍期間をすごし、会社を辞めようとしていた。

そして、辞めてからしばらくは、正社員として雇ってもらうことなく、日々をやっていこうと決めていた。

まがいなりにも会社勤めしていたわけだし、社会人って奴がどういうことに関心があるのか、遅まきながら勉強したいなって気持ちが、辞めると決めた後からむくむくと湧いていた。

それで本やら動画やらを参考にしつつ、付け焼き刃の知識を同僚に試しまくっていた。

ほおほおと感心するものから、いやいやそれはないでしょってことまで色々あったような気がする。

その中でずっとよくわからなかったのが“共感”ってやつだった。

「人間関係うまくやりたきゃ共感することが大事だよ」ってことを、いろんなところでみた。

それが何か気持ち悪かった。何が気持ち悪いのかわからないまま、気持ち悪かった。

僕の浅い理解だと(浅煎り理解か)、何でもいいから共感しとけ、とでも言いたげにみえた。社会の中にいるんだろ、コミュニケーションとるんだろ、なら共感ってポーズ示せよ、と。

そんな具合に思っていたことをふと思い出して、共感ってやつはただただ失礼なことなんじゃないかと想いはじめてしまった。

相手のことを自分の言葉でわかった気になってるだけなのではないか。自分の理解できるかたちに好き勝手変形させてるだけではないか。

そんなことを急に想ったのだった。

じゃあどうすんだよと、自分で自分に聴きたくなるわけだけど、たぶん共感なんてしてる場合じゃない。

共感じゃなくて、感動してるかが全てではないか。

他者のナニモノかに触れて、身体の中に、得体の知れない得体の知れないざわめきが出現しているかどうか。

そのざわめきは良いも悪いも、判断のつけようがない。

よくわからないけれど、ひっかかっちゃうナニカがある。名づけられない“質”が、ゴロンと寝そべっている。そのゴロゴロしてるナニカを、とっとと働け!と社会的に恥ずかしくない、都合よく理解できる場所に追いやらないこと。

邪険に扱わず、無視もせず、丁寧に見守ってあげること。そっと。

そうあろうとすることが、人間同士の関係に限らず、他者/モノとの関係であり、コミュニケーションなのではないかなと思う。

というか、そう想いたいし、そうありたい。

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