相手はどうか、自分はどうだ、相手と自分の間
20201005
畑のお手伝いをして半年ほど。
畑に行った日はなにかしらSNSで流してた。
ある時期、自分がなにをしたかを披露するような投稿が多かったなあとふりかえる。
それがどこかから、畑やそこになる野菜、その場所自体の魅力や美しさを発見しようって投稿にシフトしていったような自覚がある。
自分と世界とがセッションする。なにかを発見する。そこに歓びがある。ただそれだけのことが不連続に連続する。
子どもの頃にみつけた木の枝。子どもとその枝を拾った場所(世界)にとっては宝物になる。
ゴキゲンで親にみせる。親がほめるでもけなすでもなく、興味を持ってなさそうにみえる。
「そうか、自分と世界との発見はどうでもいいことなんだ」と思い込む。
そこから世界との交信を断ちはじめる。
交信を断つ代わりに、親に興味を持ってもらわなきゃって方向に動き出す。親の中にすでにあるポジションを読み込み正解を探る。徹底的な受動。
それが転じて、親から脱して自分の中にすでにある正解をとりつづける方向に向かう。親を抹殺して自分に従わせる。徹底的な能動。
受動と能動、いずれにしろ世界との交信は途絶えたままになる。
世界との交信を閉じてしまった門なのかフタなのかを、開け放って、風が吹くこと。ブランク。
相手がどうかと顔色をうかがうわけでもなく、自分はどうだと誇示するわけでもなく、相手と自分とで発見すること。相手と自分とを発見すること。間にたたずむこと。
子どもの頃には持ってたはずのその感覚を、今ひたすらに思い出しているのかもなあと思う。
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