中年の孤独
20210120
「中年の「孤独」とは、つながりの中での孤独なのだ。若いときには体が同じ空間にあるだけで豊かにつながれたけど、中年だとそうはいかない。なぜなら、中年はそれぞれがあまりに個性的な存在になっているからだ。自分と相手が異なる人間であることから目を背けることができない。」
っていうツイートを拝見した。
そうなのかと、思った。
30になったばかりで、中年ってモノのリアルがてんでわからないが(30はまだ中年ではないですよね?)、個性に対面するっていうのは実は中年にはじまることじゃないんだろうなって気がする。
若いときは何事もなく豊かになれたっていうのは、社会がすでに認めてくれている豊かさを目指したり、その豊かさにあやかったりしていればよかっただけだったのではないか。
中年になったから急に個性的になったのではないんだと思う。
本来ならすでにそこにあった個性を、体力なのか社会の流れなのかの勢いが勝って、見て見ぬ振りするか置いてけぼりにするかしてしまった。
そうすることが自分の身体を使った人生の乗りこなし方だった、っていうのが若いってことの一側面なのかなと思う。
それが中年になって、それでは乗りこなせなくなったり、まわりが乗りこなせないことに直面するようになる。老い。
老いが自分の持ってるモノ/持っていないモノ(=個性)に向き合うキッカケになるのかもしれないし、老いそのものが個性だったりするのかもしれない。
いずれにせよ、若さでねじ伏せられなくなった心身の変貌によって、やっと、個性に向き合わざるを得なくなる。
自分と相手が異なる存在であることは、実はとっくに気づきていたはずなのだけど、まわりも自分自身も、平気でもしくは平気なフリで、いっしょくたに、“私たち”として片付けてしまっていた。
それが、身体への気づきをともなって、難しくなる。
そんな“私”と“あなた”が集まっていながら、“私たち”と言えなくなったことへの、驚き。その不安感を「孤独」と言っているのかなと思う。
僕自身は、そういった「孤独」こそが、むしろ身体性、文字通りの我が身を受け容れるキッカケになるからありがたいことなのではないかと、勝手に思ったりする。
そして、身体性をキッカケにした「孤独」を、僕もあなたも、素通りしてきてしまったために、こうして何かのタイミングで再発するのかもなと、こうして書いていて思う。
中年の老いによる孤独と、中二病と呼ばれる発育による孤独は、きっと似てる。
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