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ブラックとホワイトのグラデーションの地下に命を大切に想うことが眠ってる

20201006

「ブラック企業はダメだわ」
「ホワイトニートって選択肢もあるよ」
と、先日友人と話したときに気になったことがもう一つある。

ブラックと、ホワイトってのは、どうやって決まるのかなあってことだ。

絶対的なブラックもホワイトも、たぶんない。きわめて相対的な概念だと思う。

体や心にたいする刺激が、その人にとっての許容範囲を超えつづけないとやっていけない場所。それがブラックってことなのかなあと思う。

自分の許容範囲をみさだめて、その線を超える超えないって具合をどれくらい律せられるか。

こう書くと、ブラックやらホワイトっていうのは、相対的な、その人の健康そのものだなって感じがある。すくなくとも当人には、自分自身の健康をどう認識しているかが問われてる。

仕事の具合を自分で律してようと他人が律してようと、体と心の許容範囲への関心がないと、どうこうしようがない。

というか、体と心への関心がなかったり薄かったりする時点で、自分で律してはないのかもしれない。これが自分だと思い込まされている何か別のものに律せられてる。

キレイゴトではすまないことはいっぱいある。健康のラインをあえて超えて、やっと手にできるものもある。

ただ、健康っていう、そのつどの自身の線引きへの意識がスタートにあるかどうか。それの有無で話は大きく変わる。

我が身を大切にすること。そして、見知らぬだれかやなにかの、存在を大切にすること。

ホワイトとブラックのグラデーションの地下には、命を大切に想うことが眠ってる。

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