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死に目が曇らない生(荒川修作『建築する身体』)

20201119

このところ荒川修作『建築する身体』を読んでいる。大学生の時に読んで以来だから、5年以上はたっている。

読み進めながら、といっても前半数ページの「序」の時点で、ああでもないこうでもないと、のんびりやっている。

5年ほどの間で、僕自身の見方、価値観のベースに加わったものに、瞑想・仏法的なものがある。

その視点で荒川の書いたもの、作ったものを考えると、一気にブレイクスルーした気にような内容が多くある。

顕教/密教、空海なんかが目指した世界を、荒川は身体へのアプローチに特化してやろうとしていたんだろうとあたりをつけている(ほかの本の中の対談で「荒川さんが目指してるのは仏教的な世界ではないですか?」みたいなことをたずねられ触れていた覚えはある)。

養老天命反転地や三鷹天命反転住宅なんかは、物理側からのアプローチで、環境的地平をゆさぶり、強制的に情報とそれに付随する身体にたいして刺激を与えることを目指していたんだろうなと思う。

どこにいたってヨガのポーズをとってしまうような環境。そのことによる物理的な身体の書き換え。

それは身体を、常につくりかえざるをえない物理空間であり、ある種の強制、やさしさもしくは厳しさからうまれる造形なのかなと思う。

ホントはどんな物理空間でだってつくり変わりうるのだけど、それができるのは修行をへたものだけ。だからそれを、強制的に引き起こす。

荒川は「死なない」という。死ぬことへ抵抗する。

まず大切にしないのは「死がない」とは言ってないことだ。あくまで「死はあるのだけど、そのことに対して抵抗するのだ」と言っている。

そして、「死なない」ことの言い換えとして、「死が永遠に予定に入らない」とものべる。

こうやってならべると一気に、「死なない」ってのが、眉唾な言葉とかじゃなくなってくる。

あくまで死はある。それは認める。その上で死ぬことに対して不毛にエネルギーを割くことなく、どう現実を生ききるか。

現実の乗りこなし方、現実のつくり方、その一つの態度のあり方が「死なない」ってことなのではないか。

常に目の前のことに集中しつづける一刻一刻をすごしていれば、死の予定がはいりこむ隙間はない。

そんな集中が、誰にでも半強制的に起こるように、荒川は建物を使って仕掛けていたのではないか。

そんな妄想が、序の時点で溢れてくる。

僕自身がみたかったのはこの世界かも?ってのを、別の仕方で、突き進んでくれてる先人がいる。

そんな死者の存在にホッとする。

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