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ボケ

20201201

「昔、日記をかいてて、ブログとかにしようかと思ったことあるんだけど、自分で読むに耐えなくてやめたんだよね」とこの前友人が言っていた。

みずからと思しき存在がつくりだしたものに対する、よくわからかい耐えがたさ。

僕の場合はどうだっけなあと巡らせる。

例えば、こうやって言葉を連ねること。

2020年のはじめくらいから、原稿用紙2枚ほどの分量を、毎日書いては放ってる。200日くらいにはなるだろうか。

書きはじめた当初は、こんなもん晒してどうすんだよっていう、自分から自分へのツッコミがあった。

でもここでのツッコミは、ただ現世のマジョリティに合わせろよ!っていうだけだったので、ふり払った。

ツッコミが入るってことは、自分はボケれてる。今までに自分がいた世界線とはちがったところに向かおうとしてるわけだから、やったぜ!って感じで今に至る。

こうして続けてみても、特別文章を書くことが好きなのかと言われるとよくわからない。

ただ思考というか手というかの運動として言葉がある。

僕はサッカーボールで壁当てをするのが好きなのだけど、僕が言葉を書くのはその感覚に近い気がする。

ボールを蹴る、壁にあたる、ボールが返ってくる、またそれをダイレクトで蹴る、それを繰り返す。

言葉はボールで、壁が世界で、言葉を介した世界との応答、その時間をひたすらに楽しんでいるような。

だから、書く内容は、言ってしまえば何でもいい。

書きはじめる一瞬前までにあった出来事の中から、これなら手が動くかなってことがふっと浮かぶ。

それで、書いているうちに(ボールを蹴っているうちに)、へえこんなことが書けるんだあ(こんなボール蹴れるんだあ)、とか、こんな世界が見えるようになったんだ(こんな反応でトラップできるようになったんだ)、とか、自分の変貌を嬉しく思う。それだけのこととして、僕の言葉はある。

さっき内容は何でもいいと書いたけど、それは僕自身が書き手になることを一番に大切にしてるわけじゃないからってのもある。

恥をかいて書くって行為を晒しつづけること自体に、価値が生まれるような環境をつくろうとしている。

自分でもツッコミたくなるような、ボケができてるかどうかが大切というか。

そんなことを書いていると歌が流れてくる。

「笑われることなく恨まれることなく輝く命などない」

自分と、それに照らされてまわりの、命が輝いてる世界がみたいなあと願う。

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