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環境問題としての苦海浄土

石牟礼道子著:「苦海浄土」河出書房新社

 自分事ではあるが、昨年11月よりこの大書を読み始めた。このコロナ禍で時おり、文芸誌や新聞記事などでこの本や石牟礼さんの特集記事が組まれていたことも読むにいたった経緯だった。2011年の東日本大震災のあとの、特に東電の福島原発事故の際、この「苦海浄土」が再度脚光を浴びたことはまだ記憶に新しいところ。でも、そのときは結局読めなかった。満を持してというか、今しか読めない、この時期でしか読めない読書というものがあるのならば、という思いで手に取った。カミュの「ペスト」のように。

 結局、読むのに三か月ほどかかった。約750ページ、第1部から3部までの構成。(池澤夏樹編纂のこの世界文学全集では一冊にまとめられている)地を這いずり進むように丹念に読んだ。大事なことを取りこぼさないようにと思いながら。

 読みながら途中、年末には国の政策であるGO TOトラベルが中止になり、年末年始の感染爆発があり、二回目の緊急事態宣言。で、読み終えたのが今日。一月も後半の現在。このコロナをめぐる事象を横目で見ながらの苦海浄土。後手後手の政策、前政権の嘘や欺瞞から、現政権の学術会議問題など。基本的に権力を持つことの構造は、いまだに歴史は変わりえない、ということをまざまざと見せつけられる。

 チッソという大企業が、日本の近代化のために水俣で大きな罪を犯す。国は知りながら放置という図式。チッソと水俣という関係は、東電と福島の関係と同じ。(汚染水の海洋放出の問題は、皮肉以外のなんでもない)そして今。感染症の世界的パンデミックと我々。

 今にきて、我々はというかこの文明世界はこれでよかったのかという疑問符が残る。昨年二月だったかいち早く、コロナについてエッセイをを書いたイタリアの作家パオロ・ジョルダーノは、文明社会がコロナを生み出したこと、感染症の問題は環境問題であると述べていた。コロナについて考えることは、人類の社会システム其の物の問題でもあり、環境問題でもあるのだ。

 昨年文芸誌「文学界」五月号のなかで多和田葉子、伊藤比呂美、リヴィア・モネ(苦海浄土の英訳者)の対談「世界文学としての石牟礼道子」のなかで、この作品は英語圏や欧州諸国では環境文学と位置づけされているとの話があった。環境問題と水俣病事件という結びつけは極めて今日的な命題だったと思う。その延長としての今回の新型コロナウィルス。

 このコロナ禍のなかでこそ、石牟礼さんの古代的な思想世界(前近代の不知火海の漁民たちの姿)に学ぶべきときなのかもしれない。

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