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女のなかの男たち~駅で始まり、駅で終わる夫婦の物語り~

『ペスト』カミュ著:中条省平訳 光文社古典新書文庫

 新型コロナウィルスの発生から、約一年半が過ぎた。そのなかで気が付けば、本書を三回も読んでいる。おそらく私は、このコロナ禍を生きていくための規範をこの小説に求めたのだと思う。本書をはじめて手に取ったのが去年の四月。ちょうど本書が再脚光を浴び、書店でバカ売れしていたときだ。最初読んだときは、タイムリーに感染症の災禍について共感しながら読んだし、またカミュの”不条理”哲学や、本書の思想的な部分に深く感銘を受けた。二回目に読んだのはちょうど今年の四月。三度目の緊急事態宣言が東京や、近畿圏に発出されようとしていた時期。二回目の再読で、この小説は男たちの信念の”お仕事小説”だという印象を強く持った。誠実の人リウーの医師としての態度、タルーやランベール、グランの命がけな献身的仕事など。まるで、NHKのテレビ番組「プロジェクトX」みたいな。男臭い、男たちの熱いドラマだった。

 そして、今回。中条省平による新訳版。言葉も現代風で、良い意味でとても読みやすく分かりやすくなっていた。三度目の再々読で、ふと考えた。この小説は改めて読んでも男ばかりが出てくる小説であるということ。ヘミングウェイの短編『女のいない男たち』じゃないけれど。では、女たちは何処へ行ったのだろう?という疑問がふと湧いたのだ。そう、女たちは何処にいるのだろう。

 まず冒頭、ペスト騒ぎでネズミが大繁殖したあくる日、リウーは病弱の妻を山の療養所へ送り出す。駅のホームでつかの間の別れを惜しむ二人。この別れが実は、今生の別れになってしまうということを既に知っている身としては、あまりにも切なく思う。リウーの口から、(この災禍が終わったら)もう一度やり直そう、という言葉が何度も繰り返される。どうやら仕事人間のリウーは病弱の妻をほったらかしていたような印象を受ける。もしかしたら、そういう意味で二人の夫婦仲はあまり芳しくなかったのかもしれない。のちに新聞記者ランベールが登場したときに、ランベールも恋人を(彼は妻だと呼んでいる)遠くパリに残してきており、恋人と再会するためにあらゆる手段を模索することとなる。(ランベール自体は、リウーも妻と別離していることを知らずに、この苦悩をリウーに、当てつけみたいに責め立てる)ただリウーがランベールに向ける眼差しはとても温かく、同情的だ。そこにはきっとランベールの愛の為の脱出に、自身の叶わなかった妻との修復を託したかのような節が見える気がするのだ。しかし、その自分勝手な脱出を非難しないリウーに、余計ランベールは自身の後ろめたさを増幅させてしまう。結局、リウーも自分と同じ身であることを悟り、ランベールもこのオランに留まる選択をする。両者の男気を感じる箇所だ。

 そんな風に注意深く読み込んでいくと、登場しない女たちがその書かれていない行間のあいだに確かに立ち現れてくる。少ししか触れられてはいないが、このペストが始まり、街がロックダウンされたとき、流行前に偶然街を出ていた老医師のカステルの妻がこのペスト禍の街へわざわざ戻ってきたという記述がある。あまりその結婚に満足を得ていなかった年老いた夫婦が、この災禍でお互い離れ離れで暮らすことはできないと悟った、とある。これも大きな夫婦愛の形である。小説家を夢見る中年グランにも、忘れられない別れた妻がいる。クリスマスに妻との思い出を回想し、泣くグランが切ない。リウーもそんなグランに、妻への思いを吐露する瞬間があるが、それも分かる気がする。この小説にとって、妻という存在はどうやらここにいない、不在さの象徴みたいな描かれ方をしているように、私は感じてならない。気配はあるが、実体はないというような不在感が絶えずある。つまり、療養のために物語にさえ登場を許されないリウーの妻の存在があることを忘れてはならない。何度も、執拗なほどに妻がいないという別離のイメージは物語のなかで注意深く読めば、反復されていることに気づく。その代表的なのが電報だと思う。感染の可能性があるので手紙は許されていないので、ほんの何文字かの電報のみがリウーと妻を繋いでいる。逆にその安否確認だけの報告のみが切実さを煽る。この小説で繰り返し反復される”追放と別離”という言葉はある意味、全ての夫と妻のそれの象徴でもありはしないか。余談だが、タルーと罪人コタールが観劇したオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』も、注釈によると、主人公の詩人が、死んだ妻を冥界から連れ戻すという話だそうで、そこにもリウーと妻の追放、別離イメージの反復が見て取れる。

 それに代わって、母親という存在は小説内では大きな存在感を残す。一番印象的なのはリウーの母であるリウー婦人。彼女は、リウーの妻が街を離れたあとにやって来るのだが、それもなにか象徴的だ。リウーはこの母に身の回りの世話を焼いてもらいながら、ハードな日常を乗り切っていく。母親のイメージはこの小説内ではとにかく色濃い。結局リウー婦人は、物語の後半、タルーがペストの病に伏したときも、その母親ぶりを発揮することとなる。そのときリウーの母親は、タルーの母親にも成り代る。和解できずに両親を亡くしたタルーにとって、かりそめではあるが、親の愛のもとで死んでいくところに救いを感ぜずにはいられない。他で言うと、ランベールの非合法な脱出に手を貸すマルセルとルイ兄弟の母親とか、あとは、感染で病気になった家族の世話をするのに登場する献身的な母親たち。彼女らは災禍のなかにあって、あくまで介助者としての役割を大きく担う。(逆に言えば、タルー率いる医療ボランティア保健隊には、女性が登場しないことが違和感として残る)というように注意していけば、一見見えない女たちが隠れた形で配置されており、そういう意味では”女のいない男たち”ではなくて、”女のなかの男たち”という風にこの小説は言えるのかもしれない。

 最終でペストが去ったあとの大団円で、駅のホームの場面。多くの人々が再会に歓喜し合うなか、とうとうランベールの恋人が列車で到着し、二人は固く抱き合う。しかし、一年前ここから出ていったリウーの妻は、永遠に戻ることはないのだ。その哀しみを考えたい。とするならば、この物語は、駅から始まり、駅で終わる夫婦の話でもあると言えるだろう。

 リウーは表向き、この災禍を記録し記憶するために使命でこの記録を書いているというようなことを言っている。が、しかし、私は、どちらかというと、戻らなかった妻への弔いのために、または、その哀しみをリウーが乗り越えるために、いわば彼自身のグリーフワークとしてこの記録を紡いだのではないかと、思えてならないのである。

 


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