見出し画像

夢じゃなくて目標。期待はしない

先日、22歳の誕生日を迎えた。
就活は終わり、卒業研究もラストスパート。そんな中で、今後自分が何をしていきたいと思っているのかを改めて考えてみることにした。社会人になってからの話だ。

私が4月から入社を予定している企業は、あまり有名な企業ではない。同期は数人で少ないし、少数精鋭って感じの企業だ。
何をしている会社なのかと聞かれると、難しいし、身バレしたくないので省略するけど、私は「我ながら良い所を選べたんじゃないか?」と思っている。
人や雰囲気についてはまだ判断できないので、やってることと会社のルールを見ている感じでの判断だ。

私は、教養のある人間になりたいと思っている。
教養、と聞くと色々なことを知っているめっちゃ頭のいい人、所謂知識人なイメージを持つかもしれないが、私が目指したいものはちょっと違う。
教養人とは、思考し続ける人だと定義している。
大きな社会問題でも、身内の小さな諍いごとでも、考える対象はなんでもいい。
「どうせどうにかなったりなんてしない」「我慢したり、見て見ぬふりをすればいい」なんて思考停止をせずに、苦しくても、自分はこれについてどう思うのか、自分には(ほんの些細なことでも)何ができるのかを考えて勉強して、少しでも誰かにとって、そして私にとっても良いことをしていきたいと思った。
なんでこういうことを考えるようになったのか?それには、私が今までに怒りを覚えてきたもの、「こうなるまい」と思ってきたものが関係しているのではないかと推測している。
家族の問題に対して思考停止する親たち、虚空に向かって「みんなで改善しましょう!」呼びかけるばかりでどんどん悪化していく社会問題、現実逃避に走る友人、自分勝手な人間たち…。そんな存在に私は心から憤慨してきたし、こんな状況をどうにか変えられないかと思考を使ってきた。
でも、私みたいな社会的地位のない人間の言葉なんて誰にも響かないし、影響を及ぼせる範囲、視野もとても狭い。とても一人で出来ることではない。
それなら、社会に属する中でやっていけばいいんじゃない?とあるとき思った。
社会の中でキャリアを積んでいけば所謂「経歴」が出来るから己の信頼性が増し、言葉に耳を傾けてくれる人が増える。同じ志を持つ人と議論し、共に仕事をすれば自分一人じゃ出来ないことに手が届くし、他人の意見で視野も広がる。
自分の興味関心のある学問分野についての知識を身につけるだけでは、何も解決しない問題に現実的なアプローチができる。
そんな条件に合う会社を見つけ、試験を受け、内定を決めた。
就活の期間内にこの結論に至ることが出来たことは、自分でもよくやれたなと思っている。「バリバリ働きたい」とか「とにかく有名企業に」、「お金持ちになりたい」といったよくある理由に引っ張られるよりもはるかに自分に合っているから。
就活を通しては、自分がこれからの人生を捧げてでもしたいことは何か、何なら長く楽しく続けられるか、「善く生きる」ことができるかを考えるいいきっかけになった。
終わったからこそこう言えるんだけれども。

そんなこんなで、来年からあれしてみたいな、これしてみたいなといったものは具体的に沢山できた。
でも、わくわくと期待に満ちた「夢」なんかじゃなくて、これはできたらいいねの「目標」だ。

私はあまり自分に期待をしていないし、未来にも期待をしていない。
夢のある未来を想像してそれに思い馳せてもその通りにいかないことの方が多い。これは大学に入学した時に学んだ。
それに、私はいくつか持病を抱えている。最近そのうちの1つでの不調が著しいし、悪化すれば働くことができなくなるようなものもある。鮮やかな未来を無責任に描くよりもやれるだけやるかと考えるほうが現実的だ。
期待はしない。
心の奥底の自分はずっと、ほんとうは未来に希望を持ちたがっているが、
それはしないと決めた。
やりたいが出来ないときに傷つくのは自分だ。


私がどこまでやれるのか、それはわからないけど、いざ終わる時になるべく後悔が多くないように
できるだけ自分を壊さないように
生きていけたらいいのにな、と思っている。
とりあえずは無事に大学を卒業できるように、家を出られるように、息を潜めて頑張っていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?