社会的な性と個人的な性的趣向性

セックスした「結果」が妊娠だった時代っていうのはかなり長い期間あって、それが妊娠の「方法」がセックスに変わった。
その変化の要因は解剖学と生物学の醸成で、それぞれの国で時期的差異はあるにせよ、そのタイミングを見極めることって重要だと思っている。
解剖学と生物学による人体がもつシステムの組成なしには、妊娠の仕組みもわからないし、その仕組みを利用して妊娠・出産をコントロールすることなど出来ない。
そして、それらがなければ、妊娠すること・出産することの選択…という女性の「権利」は発動しない。
そして、それらは大概、産業の爆発的増殖=資本主義の台頭、というタイミングとリンクしている。
つまり、その国の産業革命みたいな時期を注視する必要がある。

妊娠と出産のメカニズムが解明され、それが運用されていけばいくほど男性と女性それぞれの「性の役割」みたいなものが明確になるように思えるけど、それと性行為に対する個人的主張はわけて考える必要がある。
個人の性的趣向性はどこまでいっても個人的なもので、言わば、プライベートの極致である。
それをコントロールしなければ、社会生活など成り立たない…ということは古代ギリシアの時代から言われ続けている、社会倫理の基礎でもある。
言い換えれば、個人の性的趣向性を公的空間に持ち込まないこと。
これが社会生活の基礎だということ。
ただしそれは今ほどの後ろめたさはなくて、公的にはそれを見せなくても私的領域ではかなり「おおらか」に個人の性的趣向性は蔓延っていた。
今が異常だと思えるくらい、昔は同性愛が横行していたのはそういうことなんだろう。
それが性行為→妊娠→出産というメカニズムが明らかになり、出産をコントロールする方向になりだしたから、様子が変わってくる。
メカニズムを利用して妊娠・出産をコントロールすることは、労働力を合理的に生産することに等しく、生産力をコントロールすることに等しい。
同性愛という言葉を聞いて、どんな種にせよ違和感や嫌悪感を抱くとすれば、それは解剖学、生物学を通した妊娠・出産のメカニズムとそのコントロール、さらにそれらが生産経済活動と直結していた時代からの残り香と言える。
これが当たり前になれば、「性行為の目的は子どもを作ることであり、個人の性的趣向性を吐露する場所ではない」というような価値観も横行するだろう。
では、個人の性的趣向性はどこへ向かうのか。どのようにして消化・昇華されるのか。



性行為→妊娠→出産のメカニズムが明らかにされ、それが運用されることと、同性愛を蔑むということは表裏一体。なぜならこのメカニズムを運用することは妊娠→出産を性行為の目的にするということでもあり、それは妊娠→出産を目的としない(妊娠・出産が出来ない)性行為を非合理だと捉えるから。
しかし、反復するけれど、妊娠→出産を目的とする性行為と、個人の性的趣向性を吐露する性行為とは全く別物である。

それを探求するかは個人の自由だとして、では、自分が今自認している性がそのようなメカニズム→システムとコントロールによって形成された極めて社会的な性自認だとすれば、自分が持っている性意識のもう一面はどのようにすれば自認できるのか。
それは、蛮行と言われようがそのような本能的快楽を自分がどのような行為によって得られるのかを探求してみれば良いように思う。
つまり性行為中に自分が理性を忘れているような局面があれば、そこに重要なヒントがある。
埴谷雄高は
体毛をここまで捨て去ったのは人類のみであり、その結果、肌と肌が触れ合う感覚を享受できるのは人類だけであり、人間の倒錯的な性的興奮はその肌触りにある
というような文章を残している。
それは人類全体にあてはまらないにしても、それくらいプリミティブな感触=接触に人間の、個人の性的興奮があり、ひいては個人の性的趣向性があるのではないか。
そのように位置付けると、自分のプリミティブな性的興奮は「弾力性」にあるように思う。
そうであるならば、それは異性である必要もないということにもなる。自分はプリミティブな性意識としてはバイセクシャル的な一面を持ちながら、社会的には男性の性意識を持って生きているのだろう。
自分は今まで、例えばゲイ同士の性行為はアナルセックスであると決めつけていたかもしれない。しかし、それも一つの、そして単なる個人の性的趣向性のひとつでしかないのかもしらない。
手を繋ぐだけでも、それはれっきとした性行為であり、それで性的快楽を享受している人もいるだろう。
翻ってヘテロセクシャルな性行為であっても、私たちが一般的に想像するような性行為だけが性行為だと規定することも出来ない。
ヘテロセクシャル、ホモセクシャル、バイセクシャル…これらはあくまで、自分の内的な性意識の告白である。それを社会という公的領域に宣言することは、自分の私的領域と社会とをつき合わせて闘わせるということなのだろう。
子どもを作ることは生産力の創造であり、それが経済活動に必要不可欠なことである。
というような風潮が現在において未だに蔓延しているのであれば、やはり個人の性意識・性的趣向性は私的領域として、ある程度蓋をすることが余儀なくされるように思う。
反対に、個人の性意識・性的趣向性が公的に認められるような社会に今後なるのであれば、その頃には日本の経済活動も今とは全く違ったステージに達しているようにも思う。

LGBTの方々がセクシャルマイノリティという表現で総括される風潮があるけれど、そういった性意識・性的趣向性が私的領域に属しており、ひいてはそのような意識は社会的な性意識の一方で誰もが持っている。
ゆえに「マイノリティ」では決してない。

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