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名もなき遊びが始まる

講座などで、しばしば「感覚遊び」をすることがあります。

現代は頭を使って考えることばかりが多いので、感覚を働かせて感じたり動いたりすることの愉しさと大切さというものをもう一度実感してもらう意味もあって、あまり難しく考えずに「からだで遊ぶ」というところに軸足を置いたワークをやってみるのです。

ただからだを動かしながらその感覚を味わってみることもあれば、いろいろな道具を使って遊んでみることもあるのですが、その中で私が気に入っているものに「木板カルタ」というものがあります。(見出しの写真)

「木板カルタ」というのは私が自作したもので、ケヤキやクルミやヒノキやカエデといった30種類の材木でできたハガキサイズの木板をただ半分に切って、全種類2枚組のペアにして60枚にしたものです。

言ってしまえばただの木板ですから、遊び方は自由です。

触感や匂いや重さや音などで感じ分けて何の木か当ててみたり、あるいは裏面だけを見てペアを探す神経衰弱など(表面のシールに木の名前が書いてある)、いろいろな「感覚遊び」をすることができます。

手に取って見てみるとよく分かりますが、木の種類によってそれぞれまったく違った個性があって、一言に「木」と言っても、その豊かな多様性に驚かされます。

ただ並べてみるだけでも非常に彩り鮮やかで、思わずパッと目を惹かれます。ですから講座の最中にそこらへんに置いておくと、小さな子たちは自然と手に取って遊び始めます。

端から見ていてもよく分からない謎ルールで子どもたちが遊んでいる横で、赤ちゃんが一生懸命舐めたり囓ったりしています。

もうそれ自体が、自然で素朴で温かくて美しくて、どんな人でもいくらでも遊んでいたくなるような、そんな物なのです。我ながら良いオモチャを作ったなと、自画自賛したくなるほどです。(ただ半分に切ってヤスリを掛けただけですが…)

現代はいろいろなことが用意されすぎてしまって、私たちみんな大人も子どもも、「用意されていること」に飼い慣らされてしまっているところがあるような気がします。

子どもで言えば、既製品のオモチャなど「用意された遊び」ばかりに囲まれてしまって、目の前にある物それ自体に促されて「名もなき遊び」が始まるような、そんな機会が少なくなっているのでは無いかと思うのです。

「名もなき遊び」というのは、そのときその瞬間、そこにある環境に触発されて、そこにいる人間の空想力によって生まれる自由な遊びです。

「校門から白線だけを歩いて下校する」とか、「夕暮れ時の大きな影を使って友だちと闘う」とか、みなさんも子どものときに、そんな「名もなき遊び」をした経験はないでしょうか?

でもみなさん、大人になってからはどうでしょうね? 最近で言えばいつ頃そんなことをしたでしょうか?

自分がいったい何をゴールに、どんなルールで遊んでいるのか、何だか覚束ないままに、その場その場の思いつきと場の流れに身を委ねて遊んでゆく。

今でも子どもたちとそんな遊びをしているよ、という方もいるでしょうし、そんなことはここ数十年やっていない、という方もいるかも知れません。

思い返してみると、昔はそんな「名もなき遊び」に興じる子どもたちを町中でもよく見かけましたが、最近はそんなに見かけなくなってしまったような気もします。

私の作った「木板カルタ」は、決して何の用意もしていないわけではありませんが、それでもあまり意図を込めすぎないようにしたので、その遊び方には自由度があって、大人も子どもも目を輝かせて、いろんな関わり方をしてくれます。

遊びというのは、そこに自由がなければ愉しくありませんが、それと同時にそこにある一定の制限(ルール)がなければ成り立ちません。

ですから「自由に遊ぶ」ということは、そこに自ら「自由に掛ける制限(ルール)」を立ち上げていくということでもあります。

「制限」があって初めて「自由」の効用が最大化されるということは、忘れられがちなことですが、でも非常に大切なことだと思います。

たとえば私たちが自動車で自由かつ快適に道路を走れるのは、「左側通行」という制限をみんなが守るからで、「道路のどこを走ろうが俺の自由だろ」と言って誰かが自由勝手に走り出せば、道路はたちまち混乱し、道路を自由に快適に走れる状態は失われてしまうのです。

「五七五にまとめなければいけない」とか「手を使ってはいけない」とか「ボールを持ったまま三歩以上歩いてはいけない」とか、遊びには必ず縛りがありますが、そのように、自由から引き出される効用を最大化できる適切な制限というものを自らの手で立ち上げていくことが「名もなき遊びが始まる」ということなのです。

「名もなき遊びが始まる」ということは、その瞬間その場で生まれてくるものがあります。それは有機的で、生命的で、愉悦的で、そして人間的です。

それはまるで人間のすべての営みの苗床のようでもあって、私にはそこに何か神聖なことさえ感じられるくらいです。

大人も子どももその「何かが生まれてくる瞬間」に立ち会いながら、その新しいことが生まれる妙に、感じ入り、面白がって、動かされ、熱を発生させるのです。

現代はあらゆる場面で、用意されたルールを理解して、そのルール内での最適解を探し出す、というような身振りばかりが溢れていて、それは子どもたちの学びや遊びにすら入り込んでいます。

あらかじめ用意してあげることは、親切心ではあるかも知れませんが、それをやり過ぎてしまうと、子どもたちから自分たちで何かを立ち上げていく楽しさと喜びを奪ってしまうことにもなりかねません。

そして、そのような能力が失われていけば、それは私たちの社会の存続に関わる一大事にもつながることなのです。

「用意しすぎない」というある種の慎みもまた、私たちには必要な身振りであるでしょう。

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