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財源財源って言うけれど

いまの政府は何かと「財源財源」ってそればっかり言っていますが、どうもそれはつねに「増税」ということとセットで語られるようです。

「支出をする分は増税で賄う」ということは、「社会のお金の総量が変わらない」ということなんですけど、その点についてはどう考えているのでしょうね。

日本全体のお金の量が増えないのなら、それは当然、経済も基本的に成長しないと思うのですが…。

まあ、どこか滞って貯まってしまっているところから回収して、それを流れに戻していくというのなら、まだその考えは理解できるのですが、増税論と言えば「国民全体で広く負担」とか何とか言って、だからそれだと末端の流れが途絶えてしまってますます循環が悪くなるって言うのに、「流れ」というものが理解できないのでしょうか?

何か「経済という現象」を大きく見る視点というものが欠けている気がしてなりません。

例えば、いまの日本の国家予算は100兆円を軽く超えていますが、明治時代初期は3000万円くらいでした。

その増えた分の100兆円というお金を、政府はいったいどこから調達してきたと考えているのでしょうね?

100年以上掛けて、税金でコツコツ集めてきたんですかね?(笑)

まさかね。当然ですがそんなわけはありません。貯金なんかしてません。

だってもしそうだとすると、日本円は国民が作り出していることになってしまいますよ。通貨発行権って国民が持っているんでしたっけ?

私たちが一生懸命働いて生み出しているのは「モノやサービス」であって「お金」ではありません。

お金は、政府が作って、そして供給しているのです。

政府の「国債発行→支出」というプロセスは、お金の総量を増やす「通貨供給」です。

私たちの生命活動に見合った血液の量というものがあるように、経済活動に見合った通貨の量というものがあるわけで、それが少ないときに国債発行を増やして通貨を増やし、多すぎるときに徴税(国債償還)を増やして通貨を減らすのです。

「政府の支出は、税収の範囲内で賄わなければならない」という考え方は、年貢としてお米を集めていた時代の発想です。それは現代の貨幣の仕組みとは根本的に異なるのです。

モノポリーで、銀行役の人が「なんで俺ばっかり金を出さなきゃいけないんだよ」と言って渋りだしたら、それはゲームにならないですよ。建物も建ちませんし、街が発展するわけも無い。みんな「つまんない」と言って、モノポリーをやめて他の遊びに行ってしまいます。

「財源 即 増税」という江戸時代の考え方をしている政治家の方たちには、ぜひとも貨幣観のアップデートをお願いしたいところです。

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