甲野善紀先生の名古屋稽古終わりました

最後の道場

甲野先生をお招きしての名古屋稽古会、無事終了しました。
今、名古屋の道場の売却話が進んでおり、このまま行けば、6月中の引き渡しとなりそうです。

という中での甲野先生の稽古。
これまで、何回もこちらへと来ていただき、稽古をつけて頂きました。
組織という形を作らない中での開催なので、毎回の参加者も予想できず、10人に満たない時の開催もありました。
甲野先生ほどの知名度があれば、普通に「ビジネス」として考えれば、簡単に縁の切れるものなはず。
しかし、先生は忙しい中にも関わらず、ずっと、開催を許してくれています。

その一つの要因は、常にその日、稽古したい人が集まる、という環境でいられた、という事ではないか、と考えています。
もし、私に広告宣伝、マーケティングの力があれば、ちょっとした動機に働きかけ、参加したい意欲を刺激して、多くの人に参加をしてもらっていたはずです。

ただ、私はその方面の力がありません(笑)。
私が先生に感じた魅力そのままを伝えていますが、それは常識とはかけ離れた的外れなものだったりしています。
そんな中、わざわざ参加をしてくれる方々はきっと、無意識の中で、ちょっと普通とは違うものを求めて生きている人たちだったのではないかと思います。

今回もみなさん、それぞれ、「違う楽しみ方」で先生と向き合い、稽古をしていってくれました。
ご参加いただきありがとうございました。

どこでも稽古

道場を手放す、という事でこれからの稽古が大変ですね、と心配をされる事もあります。
しかし、その時にはいつも、これも「良い事」だと思っています、と伝えています。

というのは、私の稽古はすでに、「どこでも稽古」に変わったからです。
どこでも稽古が出来るようになって、病気や怪我、社会情勢からも刺激を受け、そこから新しい身体感覚に気づく事が出来るようになりました。
この稽古の仕方があったからこそ、「技」という世界からも抜けれました。

技を求めて甲野先生に出会った私です。
どうしても、勝った負けた、その結果を求めてしまいます。
滑らかな技、きれいな技、威力ある技、それらは魅力的なものです。
しかし、現代はすでに、そんな技を必要としない世界です。
こうして、ネットの中で人とが、コミュニケーションする時代です。
技を求める事で結果的に気づくものもありますが、技に囚われ、心の世界を見る時間が減ってしまっているかもしれません。

組織であれば技、基本、教えを捨てる事はまず、無理です。
多くの人とを結ぶもの、それが基本や技です。共通のものがあるからこそ、そこに集う事ができます。

どこでも稽古、と言いながら、道場は有りました。
しかし、道場を手放せば、もう、私はまた、自由です。
そして、さらに、「どこでも稽古スキル」が爆上げしてしまう。そう予感しています(笑)。

親離れ子離れ

もともと道場の売却話が出たのは昨年終わり。
ちょうど、その当時、見つけた術理がありました。
それは「体幹を使わず、両手だけの連動で動く」、というものです。

左手と右手、それはもう、無意識の中でつながっているのだ、という経験をし、その左右の手が常にテレパシー的にコミュニケーションをとっていけば、結果として、大きな軸となる体幹を気にしなくてもいいし、相手自体も考えなくてもいいんだ、とわかったのです。

この形で突きを打てば、信じられないほど、人が飛びます。
相手も、「気にされない」という事の影響を受けているのでしょう。

問題を問題として自覚すると、問題はさらに大きくなる。
こんな事をこの術理から学びました。

手と体幹は「親子」の関係があります。
手は体幹からは切れません。しかし、気にしない、という関係は出来ます。
それは手が親である体幹を頼る事もしないし、手という子を心配し、体幹が助ける、という事もしない事で生まれます。

現代は体幹トレーニングがブームです。
しかし、仕事は指先、いやもう、身体から離れた意識が行います。
体幹は親。頼る事も出来ますが、いずれ、くたびれるもの。
その時、親の死によって子も元気がなくなる、となるのは親にとっても、子にとっても不幸です。
親は親として、子の活躍を優しく見守る。それを身体でちゃんと表現できるんだ、とわかりました。

これも、どこでも稽古があったからこそ、わかる事です。

松聲館スタイル

甲野先生の教え方は非常識です。
多くの人には合わないかもしれません。それは、常識的な親切丁寧ではないから。

学校での学びが多い私たちは、どうしても、答えを先に教わります。
その答えを出すための方法を丁寧に教われば自分でも問題が解けるようになり、成績が上がり、喜びます。
しかし、甲野先生が教えてくれたのはそれじゃありませんでした。

30年近く前、出会った時からそうだったのですが、とにかく、言っている事がわからない(笑)。
しかし、身体には確かにそれが伝わり、考えもしないように崩れてしまいます。
そして、一生懸命それを追い求めよう!と決意しても、先生はこちらのペースを気にする事なく、次々にご自身の研究を進めていきます。
術理はどんどん変わるのです。

正しい事なんてない、そんなスタイルで身体を探っていました。
そんな稽古スタイル、私はどこにも見た事がありません。
稽古日も決まらず、自由であり、その日意欲を持って集まった人が集う場所、それが甲野先生の稽古でした。

気がつけば、私がお世話する名古屋浜松の稽古もそんな感じになりました。
次回はいつですか?と聞かれても、決まってません、という始末。
先生のご都合に合わせて、かなり直前に決まっていく会です。
そして、それでも、参加を続けてくれている常連さんがいます。
それぞれ、独自の理論で自分の身体を動かしています。あまり、「従順な人」はいません(笑)。
みんな個性的になっていきます。

今回の名古屋稽古、それがまた、十分に見る事が出来て、こうして、縁をつなげる事を一つの仕事としてきて、幸せだなーと感じました。
ぜひ、それぞれ、また、一人稽古として、日常生活の場を稽古にしていってほしいと思います。

組織への嫌悪感

さて、個人的な衝撃は最後にありました。
いつもとは違うホテルへと先生をお送りし、そこで稽古会を手伝ってくれた仲間数名と雑談をしている中でのことです。

テーマはまぁ、色々で、その中でも私自身に関する事にはもう、恥じ入るばかりで、穴はどこか?と探すぐらいでしたが、ふと自分の口から出ていく言葉が気になりました。

それは「組織」について。
組織に対しては問題意識もあり、いかに出るのか、いかにそれが難しいのか、を自覚していたつもりでしたが、今回、そこに「嫌悪感」を持っている事に気づいてしまったのです。

何かを「嫌悪」する、というのは、相手の事を思えば、そこに衝突も出る事です。
なるべく、穏便に喧嘩をせずに生きていきたい。ずっと、私はそんな感じでした。
しかし、どうやらそれも限界が来たんだなぁ、と思ったのです。

組織にいるからこそ、得られるものがある。そうわかってもいますが、あまりにも今の組織の力は品がない。個人を食い物にして、自らの中にある可能性を見るチャンスを失わせている、と思いが湧いてきました。

とはいえ、国から出る事は出来ません。
地球からも出られない。これだけ人がいる以上、どこかに組織と言える枠が生まれます。
組織を批判しても仕方がない、という思いは、批判してもやはり、自分も組織の一員なんだ、と思えたからです。
被害者であり、加害者。そうであれば、それを自覚して、研究するしかない、と思うしかなかったのです。

しかし、今、こうして「嫌悪感」を自覚してみれば、もう、それと向き合うしかなくなります。
嫌悪感を放っておけば、それはやがて、私の心をむしばむからです。
組織とは何か、遠慮なく、それを「研究」すればいい。これは、これまでやってきた稽古と同じ事です。

そんな覚悟を雑談の中で勝手に、自覚をしました。
こんなもらい方も出来るのが、甲野先生の稽古!
そして、ここに魅力を感じ、そこを超おすすめしたい!とツイートやノートで推すのですから、また、普通の人には届かいなくなります(笑)。

ただ、だからこそ、「縁」ある人に届くはず。そうも言えるだろう、と考えています。
縁ある人に届くのを楽しみにしています。

つくば稽古があります!初めてのロング稽古です!

「つくば稽古」
稽古日時:2023/6/4(日)13:00-20:00(入退室自由)
今回は初のロング稽古です。稽古の中身も楽しんでもらいたいですが、それ以上に「過ごす」という事を感じてもらえたら、と思っています。
会場:つくばカピオ リフレッシュルーム
参加費:10000円
申込、詳細はこちらのページから

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