忘れること、功罪。
また一週更新を空けてしまった。
最近毎回書いちゃうけど、まじで書くことがない。
いえもんは「なんかあった?」と心配してくれたけど、何もないから書けない、というのが本当のところだ。
というかいろんなことに何も思わなくなってきている。
感情のアンテナが日に日に感度を落としていっているのがわかる。
これはたぶん社会人生活の中で「何も思わずに忘れる」という訓練を積み過ぎたからじゃないかと思う。
社会人生活はびびるほど「忘れるしかないこと」が多い。
チームの落ち度を自分が代表して背負わなきゃいけない時。
明らかに「お前の仕事より俺の仕事の方が重要だ」と思っている人と交渉しなくちゃいけない時。
お願いもなくいつの間にか仕事を押し付けられていた時。
こういう状況に直面した時、「忘れるしかねえな」と思う。
「ナメてるんですか?」と直接聞きに行くわけにもいかないし(あとがめんどくさすぎる)、「こんなことされたな」とずっと思い悩むわけにもいかない(辛すぎる)。
自分の精神衛生のために、なるべく早急に忘れるよう努力する。
こうやって巻き起こった感情を忘れる努力を繰り返すたびに、日々の生活から自分の感情を拾い上げるアンテナがどんどん鈍っていく。
学生のとき、勝手にノートに書き連ねるくらい思い悩むことができていたのは、「将来の可能性」という分厚い防護服を身にまとっていたからだと思う。
もっと良い人間、良い状況に変わって行けるだろう、という無意識の信頼があったからこそ、今のクソみたいな自分とそれを取り巻く状況に真っ正面から向き合えた。
社会人になり、30代も近くなった今、可能性の防護服は日に日に薄くなっていく。
ほぼこの身一つ、裸一貫で社会と向き合っていかざるを得ない状況だ。
「忘れる」という選択肢を捨てて、社会人として暮らしていくのはレーヨンの服を着て燃え盛る火事場に突入するようなものだ。即マル焦げになる。
薄くなった可能性の防護服の代わりに、「忘れる」ことで心を守り、なんとか燃え落ちることなく生きているのである。
人間はそんなに器用じゃないから、ある時は忘れて、ある時は忘れない、なんてことは難しい。
日々の生活から小さな感情を拾い上げ、表現できる人は、きっと傷つくことも多いと思う。
忘れることを駆使しながら、タフに社会人生活を送る人は、きっと忘れてしまう感情も多いと思う。
どちらかを選ばなくちゃいけないのだ。
改めて振り返ると、俺が好きになってきた人たちは、うまく忘れることができない人たちばかりだった。
社会に対する違和感を忘れず、それを面白い話に変換して届け続けてくれる人。
青春の煌めきを忘れず、おじさんと呼ばれる年齢になってもひたすらその煌めきを表現しようとし続けている人。
SNSを見てて心配になるくらいいろんな人の言葉に傷つきながら、どんな考えを持つ人にも真摯に向き合うドラマを描く人。
おれはこういう人たちが大好きで、そうでありたいと思っていた。
自分が向き合うのをやめただけなのに、「考えすぎだよ」と半笑いで言ってくる人。
フィルターバブルの中で、バズるための言葉を吐き、違う考えの人たちを意識的に忘れる人。
周りの人の生きづらさを想像することを忘れて、自分の生きづらさだけを声高に叫ぶ人。
おれはこういう人にだけはならんぞ、と思っていた。
どちらかしか選べないのなら、おれはなんとか忘れないことを選びたい。
自分のものであれ他人のものであれ、小さな感情をきちんと毎回受け止められる人でありたい。
今だって忘れるしかないことが多いから忘れてるわけで、10年後にはどうなってるかさっぱりわからないけれど、少なくとも27歳の自分は「忘れたくない」と思っていたことをここに書き記しておきます。
タフだぜ、生きるの。
サイトウでした。
@いえもん
休んでごめん!!
上記の通り、書き続けていきたいと思っております。
忘却に抗えるのは描写だけ。書きます。
@きっちゃん
いつ東京に戻ってくるんだっけ!?
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