男がジェンダーを語ることの難しさ
男性である自分が「女性の主体性」とか「女性の望む社会」を語ることはいくつかの理由からとても難しくて。
ひとつには、その語り方じたいがパターナリズム、つまり父親が子どもに対して「お前はまだわからないだろうけど、こうすることがお前のためなんだ」と押し付けるような態度に似ているからで。
それはある意味では子どものことを慮っている態度だけれど、ある面では子どもが主体的に選択する権利を奪っていることでもあって。
だから「女性が生きやすい社会を男性が与えてあげる」というかたちでは意味がなくて。
それでは構造はなにも変わらないし、それじゃ「主たる男性」が物事を選択し、なにか不都合があったときにだけ「従たる女性」が声をあげ、選択を考え直してもらう、という構図にしかならない。
まるで与党・野党の関係みたいにも思えるけれど。
日本にはこういう「選択権を持ち責任を負う "お上" 」と、
「お上に基本的には従いつつも不満があれば反発する "民衆" 」という、
マキャヴェリ時代のような世界観が広く蔓延してると思っている。
「女性が権利・選択権を持つこと」と「女性の意見を権力者が取り入れること」には、本質的に大きな違いがあるというのが僕の考え方で、目指すべきは前者であって後者ではないと考えている。
だからこそ僕を含む男性全般が「女性性について語ること」が、ともすれば「父親が子どもの進路について語る」ような、変な構図を生みかねないと危惧してる。
女性は子どもとは違う。自ら選択し、その責任を自ら取ることができる、というのがまず第一の前提で。
そこから「そのように選択を行う権利は歴史的経緯から男性が多く持ってしまっている」という現状に対して、どのように対応するかを考えるのがセオリーだと思ってる。
繰り返しになるけれど、だからこそ「男性が女性に選択権を "与える"」というかたちでは意味がないと思っていて。
それは結局、与えるかどうかを選んでいるのが男性だからで。
その一段階メタな・根本的な選択権を女性に明け渡すというのは、多くの男性が自らのアイデンティティを瓦解させなければ達成できないような、非常に困難な仕事だと思ってる。
そのほとんど無意識的なレベルでの男尊女卑的な価値観は、男性にとってはテレビやアニメや漫画でもお馴染みになった当たり前の世界観で、男性自身が自分の人生の一部を否定するようなことが必要になると思っている。
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この問題を男性が考えるのが困難な理由のふたつ目として、身体・脳機能の違いがある。
人間の思考や感情というのは、魂みたいな非物質的な存在がおこなうものではなく、身体・脳の中で分泌される化学物質や電気的信号が起こす、システマチックなものなんだというのが21世紀を生きる僕の考え方で。
僕は、フロイト→ダーウィン→ドーキンス みたいな流れでこの "人間観" を受け入れて。そこに脳科学や、松沢哲郎さんがやっていたような比較認知科学 (チンパンジーの思考能力とヒトとの比較など) の知見が混ざって、この考え方に確信を持っている。
その考え方からすると、男性の思考・脳の働きというのは大いに男性的身体 (たとえばテストステロンの分泌など) に影響されているし、
女性の思考というのは、同じように女性的身体の機能によって生み出されるもので。
ヒトやチンパンジーは進化の中で「自己認識」と「他者認識」というのを、鏡のように照応させて認識する能力を身につけたと思うのだけれど。
これがいわゆる「心の理論」というもので、自分の視点を参考にして他者視点を想像する能力なのだと思ってる。
そしてその能力によって古代のギリシャ神話や日本の神道神話のような、アニミズムと呼ばれる「自然・観念の擬人化」がおこなわれてきたのだと思う。
だからヒトの脳は基本的に、人間と関係ない出来事でも「人間をモデルにして捉える」という傾向を持っているものなのだと思っている。
海の波が荒ぶるのを、人間の感情である「怒り」 として捉えたりするし。
実験でいえば、他者が右手を動かす映像を見ると、自分の脳の中の「右手を動かしたときに反応する領域」が反応する、みたいなこともわかっている。
その反応は、たとえば古典舞踏の映像を見せたとき、舞踏経験者では強く、未経験者では弱いといった特徴がある。(出典:『ミラーニューロン』Giacomo Rizzolatti )
こうしたことから僕は、僕らの「共感・理解」という機能は、自分の身体内部の反応をモデルにして、自然物や他者の動きをそれに当てはめていくような仕組みをベースにしているんだと考えている。
そう考えると、男性身体を持ったものは、どれだけ頑張っても女性身体を持つものの心の働き (内部的な反応) を、うまく理解することができないはず。
たとえ「理解した」と本人が感じたとしても、それは自らの男性身体をモデルにした反応を組み合わせて、女性身体から生じる反応を表現しただけのもので。
たぶんそれは外国語で日本文化を説明するようなものなのだと思う。
女性の心の働き (内部的な反応) を、男性が自らの内部的反応になぞらえて解釈・表現すること自体が、歪みの原因というか、「男性的文脈で語られる女性性」を生んでしまうのだと思う。
なお悪いことに「学術的な理論」とか「言語の定義」とかを担った学者たちの世界も、歴史的に見れば男性が中心で。
だから女性が自らの心の働きを「男性的文脈を介さずに表現する」ことはとても難しい。
それは現在、教科書や日常生活などで使われている言葉全体を意味・定義から考えなおすような多大な労力が必要になることだと思っている。
その途方もない仕事の端緒を開いたように思えるのが、ボーヴォワールの『第二の性』という著作で。
フロイトが「男根」を中心に精神分析理論を打ち立て、それが定着した20世紀の世界の中で、ボーヴォワールは「女性の性」という、女性身体に根ざした感覚に忠実になって、その本を書いたんじゃないかと、僕は想像してる。
当時それを日本語訳したのが男性だったというのは皮肉なことで。
しかし後に女性翻訳家たちの手によって再翻訳されて『第二の性ー決定版』として新潮社から再出版されている。
それを読んで僕はボーヴォワールあるいは翻訳家たちが言語の壁と戦っているような感触を得て、きっと「女性の身体感覚をベースにして体系化された言語」というものがあれば、この本はこんなに長くならなかっただろうと思った。
もちろんそんなものは僕の妄想かもしれないし、男性身体しか持たない僕にとって、女性による女性についての表現というのは「どのエイリアンの言うことが、エイリアン界において正しいのか」みたいな茫漠とした話なんだけど。
ただ女性から見ても男性中心社会というのは「男性身体をベースにしたエイリアン世界」のはずで。その中で「自分たちの感覚とは違うエイリアン語を使って、エイリアンたちにわかるように自分たちの感覚を表現する」という途方もない仕事の端緒を開いた著作として『第二の性』を位置づけられるんじゃないかと、僕は思います。
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まとめると、
1. 男性 という現状において支配的な性別のものが、女性 という現状において被支配的な性別に対して、"やってあげる"、"与えてあげる"、という構図では、権力構造がなにも変わらないため、男性が女性の権利やフェミニズムを語ることは難しい。
2. 男性身体を持つ以上、女性身体をベースとした価値観や欲望を理解することには限界がある。男性が自身の感覚や言葉で「女性の価値観・欲望」について語ること自体が、その本来のかたちを歪めてしまうようなものになりかねないので、難しい。
といったことです。
だとしたら男性にできるのは、自分が「どうあがいても生物学上の男性身体を持ち、男性的なホルモン等の働きによって思考している」ということをせめて自覚して、それとは違う思考パターンや価値観や欲望のかたちがあるのだということに対する、知性的な想像力を持つように心がけることしかないのかなと。
"知性的な" とわざわざ付けたのは、いわゆるミラーニューロン的な「生物学的・本能的な想像能力」には限界があるからで、むしろ「自分にはどう頑張っても絶対に理解できない領域がある」「理解できないから、共感ではなく知識として身につけるしかない」という諦めから生じるものを示すためです。
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