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小説:ゴキブリに慈悲を

 恋はリバーシ。好きとに悔いは表裏一体。これは真理であるのだ。今まそれを現在進行形で知らされている。あの女俺が大嫌いな福田と一緒に帰ってやがる。この俺の誘いは断ったのに!
 
 あの女があんなに愚かだとは思いもよらなかった。この天のように心が広く慈悲深い俺を振ることすら愚かだというのに。あろうことか、あの福田を選ぶなんて、1足す1は3だというやつより頭が悪い。

 福田はこの世で一番の屑なのだ。少し運動神経がいいからと調子に乗り、部活に乱入し練習メニューをめちゃくちゃにするわ、授業を邪魔するわでやりたい放題するゴミなのだ。それだけならまだ100歩譲ってまだましだが、奴は学校にお菓子を持ってきたことがばれた時あろうことか俺に濡れ衣をかぶせたのだ。そのせいで女手一つで頑張る忙しい俺の母が学校に呼ばれることになってしまった。俺はやってないという結論になったが、内申点が下がった。おかげで学費タダの私立高校特待生コースに雲がさした。福田のゴミ野郎は謝らなかった。
 
 しかし、生き物であるのならばゴミの福田と一緒に帰るなんて選択肢をとるはずがない。地球の生き物はそこまで愚かじゃない。ましてや俺が惚れた女がそこまで愚かなはずがない。そうか。彼女はあの畜生に操られているのだ。生ごみ外道野郎の福田ならやりかねん。彼女を救ってやらねばならない。

 奴を懲らしめるためには何が有効だろうか。藁人形でも作り五寸釘を打ち込んでやるのがいいだろうか。どこかにあった有名な縁切り神社でお参りををするのがいいだろうか。まあ、それは当然するとして何というかいまいちパッとしない。おまじないや神様のお願いみたいな霊的なパワーに頼れば自分の手は汚れずに済むかもしれないが、なんだかじわじわとした不幸が積み重なるだけな気がする。鳥の糞が鼻の頭についたとか、たまたまズボンが破れてパンツ丸出しになったみたいな感じの。それじゃあ全然だめだ。奴は派手におのれの醜態をさらし、生まれてきたことを懺悔してほしい。悪魔が倒されるときは皆が笑顔になる必要があるのだ。

 かといって直接的な行動、例えば暴力をふるうだとか、先生にチクるだとかそういうことはまた違う。奴を喧嘩でぼこぼこにするのはさぞ気分がいいだろうが、奴に反撃される隙なんて一ミリたりとも与えられたくないし、そもそも、この聖人たる俺が奴を殴ることで奴と同じレベルに落ちてしまうことが我慢ならんのである。

 あのゴミが自分がゴミだと自覚し、そんなゴミの催眠をきれいにとく方法はないだろうか。イヤ、あるかもしれない。でもそれをやるにはなかなかの勇気が求められる。俺は勇気を出せるだろうか。イヤ出せる。俺は覚悟を決めて家に帰った。


 何とあろうかとか帰宅後に、そのチャンスが現れた。妹が悲鳴を上げて玄関にすっ飛んできた。

「出た! 出た!  お兄ちゃんやっつけて!」

 木造築48年のボロアパートである我が家は出るのだ。それもでかい奴が。そう、ゴキブリだ。いつもは大事な家族を恐怖の底に陥れるそれを俺は容赦なく叩き潰す。しかし、今日はそのつもりがない。生け捕りにするのだ。そして、往々にして殺すことは生かすことよりも何倍も楽だ。今回もそうであった。いつもは新聞紙を丸めた伝家の宝刀で一刀両断するのだが今回はビニール袋をまとった手でつかみ取る必要がある。その平らなフォルムを駆使して奴は逃げ回った。妹はそれを見て、ぎゃあぎゃあ騒ぎまくる。

「早くやって! 早く!」
「でりゃ!」
 俺はやっとのところでそのすばしっこい黒い塊をつかみ取った。その後、袋を強く縛って奴を封印した。

「早く殺して捨てて!」
 妹が叫ぶ。

「だめだ!」
「なんで!」
「よく考えてみるんだ。このゴキブリだって生きているんだぞ。それの必死にだ。たとえどれだけきもくても必死に生きているんだ。それを止める権利なんて俺たちにあると思うか?」

「でもゴキブリだよ?」
「でもお父さんいないじゃん、って言われたらお前どう思う?」
「そんなの私だって泣いちゃう。好きでそうなったわけじゃないのに」
 俺たちは、そういう言葉に今まで何回も傷つけられてきた。そして、その言葉はあいつもしっかり口にしていた。

「ゴキブリだってそうだ。好きで嫌われ者になったわけじゃないんだ。ほかの虫と比べて、たまたま家に出やすくてたまたまかっこいい特徴が少なかっただけなんだ。そういう役割になってしまっただけなんだよ。だからさ、好きにならなくてもいい。ただ殺すのだけはやめてあげような」

 妹はこくりとうなずき、やっぱりお兄ちゃんはすごいと言った。そうだろう、お兄ちゃんはすごくて優しいんだ。でも俺は元からこうだったわけじゃない。俺も、最近優しくなれるコツがわかったんだ。

 優しくなるコツ、それはその家族すら一緒に燃やし、拷問にかけてやりたいほど強烈に憎む相手を見つけることである。さあ、準備は整った。今まで家族を絶望の底に追いやるゴキブリは怖くて憎くて嫌いだった。今のゴキブリはお前だぞゴミの福田。

 奴は、今日もまた彼女と一緒に帰っていた。それを確認した俺はいち早く家に帰り、ゴキブリを入れた袋を持ち出した。あの捕縛したゴキブリは雌だったようでいつの間にか卵を産み、袋の中で大家族を作っていた。何ともおぞましい光景である。奴らは公園に寄り、ベンチに座った。いつも奴らはそうしている。躊躇しかけたが福田が彼女の肩に腕を伸ばしたのを見て、迷いは消し去った。俺はベンチの裏の茂みから近づき、福田の頭にその袋の中身をぶちまけた。ゴミはゴキブリがお似合いだ!

「うわあああああああああ!!!!!!!!」

「きゃあああああ!!!!! ちょっと! 福田君! こっち飛ばさないで! 近づかないで!」

 福田は、ゴキブリを払おうとじたばたしながら、彼女から離れてゆく。彼女の助けに一切耳を傾けることなく自分にへばりついたゴキブリと格闘していた。

「大丈夫!? 俺が掃うよ!」

 そう、ピンチに颯爽と登場したのは俺だ。俺は鋭い右手の手刀で彼女の服についてしまったゴキブリを払い落とした。

「あ、ありがとう」

 彼女は冷静になり、顔を上げた。俺と目があう。その目はとてもきれいだった。今まで見たことのない色っぽい表情をしている。ちょうどその時後ろで、ぼちゃんと音がした。福田が池に落ちた音か、彼女が恋に落ちた音かもしくは両方か。

 そうだ。福田。思い知ったか。それがお前のあるべき姿なのだ。洗脳なんていう卑劣な手を使ったお前はこの表情を引き出せなかっただろう。そしてこれからもそれを行うことはない。お前はそうやって、ヘドロ臭い池の底から自分の浅ましさを反省するのがお似合いなんだ。

「どういたしまして」

 彼女は今でも抱きしめてしまいたいくらいかわいかったが、俺は獣ではない。いきなり腕を伸ばす福田のようなサルではない。紳士である。したがって俺は紳士的に右手を差し出すのだ。完璧である。悪の権化をやっつけて彼女を洗脳から救い出した瞬間である。

「え、それゴキブリ落とした手じゃん」

「え?」

 イヤ、確かに右手の手刀だったけれど。彼女の目はみるみると鋭くなっていった。さっきの表情はどこに消えた。そして見覚えのある表情になってしまった。一緒に帰ろうと誘い振られた時の表情だ。

「それに落とすときちょっと胸かすったでしょ。サイテー」

 彼女はぷんすかしながら去っていった。ああ、黒いあいつに彼女の恋は裏返ってしまったのだろうか。俺をあざ笑うかのようにゴキブリが道を横切った。

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