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愛してると言う時、それは実際に何を意味するかを別の言葉で説明するならば

愛されたい。
私は愛されていない。
あなたを愛したい。
自分を愛してる。

私たちは気軽に「愛」という言葉を使うけれど、
それが意味するところを明確に説明できる人も、説明しようとする人もあまりいない。

愛。
日常的なレベルではせいぜい「大好きよりもっと上の好き」くらいの気持ちで使っていて、なんだかすごく軽薄なもののように聞こえたりもする。

でも、美しい音楽を聴いて涙がこぼれる時、ずっと思いを寄せていた人の手を握った時、我が子の寝顔をそっとなでる時、友人と久々の再開を喜び合う時。そのほんの儚い一瞬、私たちは「愛」の意味することを、きっと言葉よりも深いレベルで理解している。

私たちは愛が何なのかを知っているはずなのである。だのに、なぜか誰もうまく説明することができない。

愛。
それはまるで言語空間から遠い場所で漂い続ける最後の宝を差し示すための、人類共有の暗号のようである。

愛。
愛とはなんだろう。
この記事ではそれを、罰当たりにも、おこがましくも、言葉で説明してみたいと思う。

愛の反対が無関心?

「愛の反対は憎しみではなく無関心である」という言葉がある。
マザー・テレサの言葉とされているが、実際にはマザー・テレサのドキュメンタリーに挿入されたナレーションにこのような文言があっただけだとかで、さらによく調べると、ノーベル平和賞を受賞したホロコースト生還者エリ・ヴィーゼルの言葉が元になっているらしい。
この言葉が出自も曖昧なまま私たちの胸に残り続けてきたこと自体、この言葉がいかに「愛」に関する真実を適切に表しているかを示しているようにも思える。

愛の反対は無関心。
親からまっすぐに可愛がられなかった子どもは、問題を起こしてでも親の気を引こうとする。

私たちにとって一番嬉しい褒美は可愛がられ、頭をなでられ、お前はいいこ、お前は必要なこ、お前はだいじなこと認めてもらえることだけれど、一切目を向けてもらえず、言葉をかけられず、いないものとして扱われるくらいならば、お前なんかいらない子だ、必要ないと言われて頭をぶたれた方が、少なくとも幾分かはましなのである。

それを私たちは、知識の上でも経験の上でもよく知っている。

愛の反対は無関心である。
だとするならば、
愛とは無関心の反対。すなわち、関心である。と言うこともできるのではないだろうか。

好きと嫌いはコインの裏表?

愛とは関心である。関心をもつことである。

そうであるとするなら、「好き」と「嫌い」、「愛しさ(一般的な意味での)」と「憎しみ」は、コインの裏表であり、本質的には関心=愛の現れである、と言うことができるのかもしれない。

これは、なかなか納得感のある着地点だと思う。
私たちが誰かに憎しみを抱くとき、その誰かに対して感じていた愛しさが強ければ強いほど、それに比例して深い憎しみを抱くものである。
可愛さあまって憎さ百倍というやつで、私たちが心底から憎むのは自分を慈しんでくれなかった親であったり、親愛を裏切った友人であったり、恋心を踏みにじった恋人であったりする。

「好き」な相手を、同じ熱量で「嫌い」になるけれど、その土台となる何か、その関心のありよう。それが愛なのかもしれない。
「好き」な相手が同じように自分を好きでいてくれなかった時、「好き」な相手が自分の期待するような振る舞いをしてくれなかった時、私たちの「好き」は「嫌い」へと裏返る。

嫌いは好きに裏返らない

「好きと嫌いはコインの裏表である」。
それでも、この説明には違和感が残る。

例えば私たちは、私たちの平穏を脅かす犯罪者や、労働者を人間と思わない経営者や、市民を守る気のない政治家を憎む。
ネット上で見かけた差別主義者を、ワイドショーで大写しになった不倫した芸能人を憎む。こうした感情は、友愛、好きという感情の裏返しと言うにはちょっと無理があるだろう。

私たちはこれまで一切の関心を向けてこなかった相手に対しても憎しみを感じることがある。それは「好き」が裏返った結果としての「嫌い」ほど根の深いものではないかもしれないが、それでも、憎しみは憎しみ。嫌いは嫌いである。こういう時、私たちは嫌いな相手からの愛情など求めていないし、なるべく視界にも入れたくないと感じている。

またさらに、憎しみを抱いていた相手を何かのきっかけで「見直す」ような何かが起こったとしても、確かにそのインパクトは相対的に大きくなりがちであるが(乱暴な不良がお年寄りに親切にしていると優等生より優しく見える理論)、決して「かつて抱いていた憎しみの量に比例して愛しさが深まる」などとは言えない。
つまり、愛はそのまま憎しみに転化することがある一方、憎しみがそのまま愛に転嫁することはまず起こらない。

憎しみが愛しさの裏返しでしかないとしたら、こうした物事を説明することができない。
もう少し慎重になる必要があるだろう。

嫌い、憎しみとは何か

的確な説明を完成させるために、憎しみとは何かを考えてみたい。

私たちが誰かを憎むとき…たとえば連続殺人犯を憎むとき、私たちはその犯人のニュースに釘付けになり、犯人についての情報を集めようとする。
その証拠に凶悪犯罪で犯人が捕まると、犯人の写真、本名、その生まれ育ちや過去の友人の証言、卒業アルバムの内容までが人々の関心の的になり、SNSで盛んに出回るようになる。

皆、憎き犯人に強烈な関心を抱き、沢山のことを知りたがる。その行為だけを切り取ればまるで恋のようであるが、決して恋とはちがう。

それはどちらかといえば「怖い物見たさ」に近い。私たちは何かに恐怖すると、その何かから目を離せなくなる。それは自分の身を守るための本能のようなものであろう。
事故現場には必ず人だかりができるが、あそこに集まっている人たちは決してその事故現場を好きだとか愛しているのではもちろんなく、嫌悪や恐怖を感じているが、嫌悪や恐怖の強さ故に、目を離せなくなっているのである。

犯罪行為に限ったことではない。私たちは、何か鼻持ちならない人間、なんとなく嫌いな人間を見つけると、その人間の行動をつぶさに観察してしまうことがある。「嫌なら見るな」と言われようと、嫌いな隣人、有名人、インフルエンサーの動向を逐一追いかけてしまう。決して好きではないし、好きだったこともない。それでも、目を離すことができない。

嫌なら見るな、というのは人間にとって無理のあるアドバイスなのかもしれない。
人間の本能は、「嫌なものこそ見てしまう」という方向に動くのである。嫌なものなんか無視した方がいい。記憶から消し去って忘れて、脳の容量を食わせない方がいい。そう頭では分かっていても、無視できない。忘れられない。脳に住まわせてしまう。人は関心を持たなくて済むような相手ならば、そもそも嫌いにもならないのだ。

「嫌い」とはつまり、「関心をもちたくないのに、持ってしまう」という状態なのではないか。すると同時に「好き」とはおそらく、「積極的に、喜んで関心を持っている」という状態だと言えるのではないだろうか。

つまり、

関心=愛を持ちたくて持っている…好き
関心=愛を持ちたくないのに持ってしまう…嫌い
関心=愛を持っていない…無関心


ということである。
これならば、先ほどの話に無理なく説明がつく。
「好き」な相手から裏切られても、すぐさま関心をなくすことなどできない。関心をなくせしたいのになくせない。だから「嫌い」になる。
「嫌い」な人間の良いところを見つけても、それだけで積極的に関心を持ちたいという気持ちが沸き起こるわけではない。
だから「好き」が「嫌い」に変化することは多くても、逆は起こりにくいのだ。

愛は「関心」という言葉だけでは説明できない

好きと嫌いと関心の関係がすっきりしたところで、本筋に戻りたい。
「愛の反対は無関心である」イコール「愛とは関心をもつことである」。
これは正しいだろうか。
多分正しい。

しかし、それでも何かが足りない。

「関心をもつ」という言葉にどうにも違和感が残るのである。
私たちは政治に関心を持つ。スポーツに関心を持つ。恋愛に、ビジネスに、他人の人生に、関心を持つ。
この「関心を持つ」も、愛だと言えるだろうか。そういう軽い感情を「愛」という秘密とイコールで結びつけるのは、どう考えてもおかしい。

誰かを心から好きになり、愛おしく思うとき、その誰かのために、命を投げ出していいとさえ思う。その感情を、単に「積極的に関心を持っている」と言い換えるのはふさわしくない。

確かに愛とは関心を持つことと似ている。似ているが、もっと違う何かを表している。

何というか、同じ意味だが、その深さ、感情のレベルが違うのである。愛はただの関心ではない。もっと人生とか生命とか宇宙とか永遠とか、そういう壮大な何かである。

愛していることを言い換えるとき、たとえば子どもへの愛を言い表すとき、「あの子は私の全てだ」と言ったりするが、まさにあれこそが愛をとらえた表現だと思う。
誰かを、何か愛するとき、その何かが自分の人生、命を隅々まで満たし、その全てを支配しているような感覚におちいる。

つまりきっと、何かを愛しているということは、多分その何かを、自分の世界、その人生、存在の一部として迎え入れているということなのだ。

私たちが誰かを好きだと思うとき、その誰かが自分の世界の一部であることを祝福し、喜んでいるのだ。それが愛おしいということだ。

私たちが誰かを嫌いだと思うとき、その誰かが自分の世界の一部であることを恐れ、嫌悪しているのだ。嫌悪しながら、それでも自分の世界の一部とし続けずにいられないということ。それが憎しみということだ。

私たちが誰かに関心を持たないとき、その誰かは、自分の世界と何の関係もないということである。

よって、

「何か愛するということは、その何かを自分の一部として迎え入れることだ。」

というのが、私がたどり着いた、今のところベストの回答である。

↓ここまでが結論。ここからはオマケのような形で、この結論から導かれる色々について話しています↓

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