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魔女見習いをさがして

2020年12月1日(火)

本日は映画の日!!!

昔なら一人で映画館へ行って、朝一から夜中まで4~5本の映画を観まくっていた日。

今は家族がいるのと、仕事があるのと、金が無いのと、コロナもあるのと。

で、好き勝手に映画館へは行けなくなってしまった。
いや、家族が生活以外に使える金さえもっとしっかり稼げてたら、結構自由には観れるとは思うのだけどね。

でも、まあ
今年最後の映画の日。

やり残した仕事に後ろ髪引かれながら、もうすぐ終わるかもな映画を観てきた。

20年前にテレビでやってた
「おじゃ魔女ドレミ」
の久々の新作にして完全オリジナルの劇場版
『魔女見習いをさがして』

特に、おじゃ魔女ファンなわけでもなく。ずっと見てた訳でもなく、なんなら殆ど見たことがなく、思い入れも無い作品だけど。
昔、一緒に舞台やらショーやら装置作りやら劇場作りやら店内改装やらをやっていた役者仲間の五十嵐勝平さんがオタクの域を越えて信者にまでなるくらい好きだった作品。

だから、とても心に残っている。

何度か見て素晴らしい作品だったのも覚えている。

そして、その時は全く接点のなかった出演者の声優たちと、今は知り合いになっている不思議。

そんな色々があって、どうしても映画館で観ておきたかった作品なのです。

※ちなみに五十嵐さんは亡くなった訳ではありません。めっちゃ元気にオタクしてます。

で、映画館へ。
相変わらずギリギリの時間で移動。

後ろの方はそこそこ売れている。
けど俺は前が好きなのと、コロナ対策もあり周りに人がいない方がいいので前方の席を購入。

劇場へ入ると、三十代以上の男女がまばらに座っている。

当たり前のように若い子も家族連れもいない。

観る!!

前評判や制作者のインタビュー等を聞いていたので、普通のおじゃ魔女ドレミの続編では無いことは知ってて観る。

感想は、面白い。
大感動もどんでん返しもサプライズも無いけど、丁寧に仕上げられた物語と作画で、あの頃のドレミの世界が作られている。

途中で始まり、途中で終わる「鬼滅の刃」の劇場版より、完全オリジナルの劇場版なので、こちらの方がしっかりと「映画」になってて、楽しめた。

終わった後にカップルの女の子も
「鬼滅の刃よりこっちの方が面白かったよ」
と言ってた。

俺もそう思う。

ただ!これは映画として見た場合だ。
「鬼滅の刃」は映画ではなく!もう「鬼滅の刃」として楽しむ作品なので、映画として比較するのは難しい存在なのだ。

「鬼滅の刃」はテレビアニメを見てた前提で、この先もTVアニメを見て貰う前提の作品。
もう、グッズから雰囲気から社会の流行りから全て「鬼滅の刃」を体感するための一つとしての「映画」であり、こっちは「ドレミ」を見てた人が懐かしみながら、知らない人でも入り込める二時間で起承転結が纏められている「映画」なのだ。

まあ、どちらも面白いから観ることをお勧めします。

映画は映画館で観ないと映画を体感出来ないから不思議だねー。

そんなこんなで、ここから下はネタバレ感想です。

ネタバレしたくない方は飛ばして読んでね。

◆◆ネタバレ◆◆

スタッフさんのインタビューで、はじめはタイトルに「おじゃ魔女ドレミ」を着けないつもりだった。
と言っていた。

と言うことはドレミたちは物語に出てこない可能性がある。少なくとも本編には殆ど絡まない立場のはずだとわかる。

そしてオープニング。
懐かしいあの歌をしっとり歌い上げる当時の声優たち、そのオープニングアニメの中で、今回の主人公達が子供の頃にテレビで「おじゃ魔女ドレミ」を見ているワンカットがあった。その瞬間理解する。
そうか、これは「おじゃ魔女ドレミ」の世界ではなく、「おじゃ魔女ドレミ」を見ていた子供たちの世界、つまり現実世界を舞台にしたお話なのだ。と。

その予想はかなり冒頭から当たっていると教えられる。
おじゃ魔女達が大好きだった当時の女の子達が大人になって、社会人として少し躓いた時のお話。つまり、観客たちの物語なのだ。

お話は良くできているけど、四十過ぎて人生が半分以上終わっているおじさんにには、共感できる所など殆どなく、二十代から三十代前半の人達が見れば心に刺さる物語なのかもしれない。

でも、背景や絵もとても綺麗で、こだわってて、現実が舞台だからこその写実的な背景が活きてきて。
優しい物語に枯れた叔父さんでは感動は少ないけど、でも、やっぱり最後にドレミたちが歌と一緒に出てきた時には不思議な感動に包まれた。
この感動こそが「映画体験」なのだ。

エンドテロップ見て知り合いたちの名前に、少しほっこりしながら、純粋なお客様にはなれないことを知る。

◆◆ネタバレ終わり◆◆

娘たちが小学生になったら、一緒に「おじゃ魔女ドレミ」を全部順番に見てもいいなぁ。と思った。
その時は五十嵐勝平さんに全部借りてこよう。
もちろん只で。


最近、台本を書く機会が減った事もあり、現在の社会にたいして殆ど興味を持たなくなっている。

昔は同じ作品を何度でも腐るほど見まくった!
今は沢山の作品を見てても、垂れ流しだ。一度見て話を知る程度。明日には忘れてる。
感動も少なくなった。

ファンタジーを書くことが多かった事もあり、いまは神話なんて太古の歴史を書いている。

だから、俺の脳内は90年代で物語世界がストップしている。

スマホやSNSも出てこない。
性同一性障害や不景気も出てこない、政治家なんてもっと出てこない。

俺は時代をきっと映画から学んでいたのだ。
だから生きることを作品のキャラクターや監督たちから学んでいた。
映画製作の裏話を貪るように読んだ。
帰り道でふらりと本屋によって何時間でも立ち読みしたりした。
それが勉強しない、会社勤めもしてない俺の時代を知るための唯一の方法だったんだ。

今は、家族がいるから仕事が終わったら早く家に帰る。
家に帰れば子供たちの見たい番組を観る。
今まで殆ど見た事の無かった、NHKやディズニーにとても詳しくなった。
逆に映画や演劇にはどんどん疎くなった。

元々現実主義者の僕はファンタジーを書く事に抵抗が生まれだした。なんというか、昔からずっと思ってた「全くこの世界と関係ない嘘のどうでもいい物語を何でかいているのか?何でお客さんにそんな嘘っぱちを見せているのか?」その思いが強くなり、お芝居の台本を書かなくなったのも一つの理由だ。
男ばかりの会話劇の「アベンジャーズ」や「みんなの物語」はそう言った意味で、この世界で起きた本当の事をフィクションの視点で語る。と言う僕なりのフィクションと現実の落とし所として出来た作品だろう。

だから今、神話なのだろう。
過去の出来事の歴史として、神様の世界のフィクションとして、多分僕の心のバランスが保てる世界なのだ。

でも、有りがたいことに外注で台本や脚本を依頼されて書くことが幾つかある。

だからこそ、俺は勉強しなければならないのだ。
脳内の物語世界を1990年~2020年にまで進歩させてやらないと。

演出家としては映画と同じ速度で手法を進化させてこれた気がする。

だが、作家としては俺は過去に生きている。
パソコンの専門用語もわからない。
ネットの繋がる理屈もしらない。
クラウドは上手く使えない。
インスタグラムもticktockも使い方も楽しさもわからない。

ダメだなぁ。
そんなのはプロとしてダメだなぁ。
と思う。
昔の伝統的な手法にこだわって稽古を続けてるならよいのだが、稽古も今は持続できてない。

いかんなぁ。

来年からは、今より更にいろんな事をしなければならなくなる。
責任もできる。

それらを全て全うしながら、更に新しい事をやりたいと思える好奇心のような純粋な心をもう一度持たないと。

でも、純粋な好奇心はもう取り戻せないと思うから、知らないことを一生懸命勉強して知識と言う武器を持ち続けなければならないのだろう。

そんなことを感じた映画だったとさ。

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