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第二章 日本料理の修行って厳しそう。ってホント?

今回は19歳で京都に出た初めての心境から、今までお話していなかった裏話を混ぜてお伝えできたらと思います。少し長くなるかと思いますが一番大きな出来事でもあり、全てがリアルで興味深い内容になっているので最後までお付き合いください。

いきなりですが、タイトルの答えから

僕は19歳から京都で5年間、東京は神楽坂で2年間修行をしました。
今時「修行した」なんてあんまり使わないし、修行したなんて人生のキャリアの中で言える人もあまり多くないはずなので胸を張って使っています。

今回は最初のタイトルの答えを先にお伝えします。
「日本料理の修行は厳しくないです」
おそらく皆さんが持っているイメージは、恐い頑固親父がいて、中々仕事を教えてもらえず労働時間も長く、立派に成長するには長い年月がかかると。(お寿司屋さんも同じイメージかな?)
確かにその通り厳しいですね。ズブの素人からプロになるわけですから。
でもなぜ厳しくない!と言い切っているかということを深掘りしていきましょう。

厳しくないと言ってるけど実際は、、、?

19歳で京都に行き、僕は初任給4万で、弟子同士でボロアパートに住込みで生活していました。
そのアパートはお湯が出ないので、なけなしのお金から給湯器を買い、それをホースでつなぎシャワーがわりに浴びたりしていました。
朝から晩まで働き、日曜日の休日が仕事で潰れることもあっても何も手当てはありません。
昼と夜は賄いがありますが、追加で買っていい食材はネギやキャベツ、しめじなどの安いもので、もちろん肉は買ってはいけないし正直満たされるような食事ではなかったです。
その給料から3万もする包丁を買ったり、魚を下ろすにもお客様に出す魚で練習はできないので、朝一自転車で片道20分の市場に行って、腐りかけの魚を買って練習していたのでたまの休日は遊ぶお金もないし、食事をするお金もなく1日なにも食べれない日もよくありました。その中で一年目の料理人なんか何もできないのでひたすら雑用と掃除、簡単な手伝いしかできません。なにかやらせてもらっても怒られるか、そんなんもできんのかと馬鹿にされるか。
こんな生活は僕か、お笑い芸人かぐらいだろうなと。
それが続くと思ったらなかなかキツイですよね。

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なぜその環境で5年も務めたのかの理由

理由は一つです。
有名な京都の料理屋さんの中でもここでしか学べないものがあってこれが将来東京に戻った時大きな武器になると確信したから。
純粋に料理を学ぶ事が楽しかった。成長している自分を感じられた事。
正直これに尽きるんです。そして先ほどお話した環境が、当時の自分を奮い立たせてくれたので、「なんとしてでも一人前になる」と思えたのでしょう。
これだけやってるんだから、30歳になる頃には同期の人と比べて給料を3倍稼いでやる!と思っていました。(実際に29歳でそれを実現させました)
そして、こんなぶっ飛んだエピソードを語るのを将来の楽しみにしていました。
まだまだ話しきれないほどのエピソードがあるので、、笑


学びの中で最も大事にしていた事

19歳の頃から強く自分に言い聞かせていた事があります。

最も重要なのは未熟な自分もいつかはプロになるというということに自覚と責任を持つ
という事。
まだ修行のペーペーだから、新卒だからみたいな考えはなるべく早くやめる。
腹をくくって料理人になり技術を突き詰めていく人生の中で、ボロカス怒られる事なんか、たった3年-5年ぐらいです。そしてその時間の中で高度な失敗(チャレンジ)をし続ける事。
これは本当に大事です。そもそも重要な仕事は回ってこなくて大した失敗はそもそも出来ないんだからさっさと失敗して出来るようにしようという考えがいいと思います。
僕は、20代前半でこの3年-5年が人生においてとてつもなく重要な時間で、もう2度と体験できない奇跡の様な時間だと当時から思っていました。
乾き切ったスポンジの様に吸えるだけ吸う。良いこともそうじゃないだろと反発したくなる事でさえも全部栄養にしようと。そして、自分で責任取れるようになってから、自分の経験というフィルターで濾過して自分なりの形を表現しようと出来るだけいっぱいためました。
でも3年ぐらい経つと少し個人を出したくなる。個性の出すタイミングを間違えると、ただの社会不適合者になる。貴重な学びの時間に自分の短い物差しで個性を出すなんて本当に無駄な時間になってしまうからそれはなるべく注意して過ごしました。

感謝の気持ちを

素人のガキんちょがプロになろうと勉強してる身分で、給料をもらい、メシを食わせてもらい、住まいまで与えてもらえるなんてありがたい事です。

散々綺麗事を並べましたが、生意気で何も出来ない青二才の自分を成長させてくれてありがとうございました。今のTAJIMAのルーツはここにあります。

それでも厳しくないの?と思うかもしれませんが、僕にとってはやっぱり厳しいとは思えません。
そう思わせてくれたのは、厳しさの中にも愛情がある親父さんや、プライベートも仕事も日々笑わせてくれながら熱心に技術や知識を教えてくれた若旦那、いつもニコニコの大女将さんの存在があったからだと思います。
そんなところで学び、過ごせた事を誇りに思います。

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いつまでもお元気で

第一章
料理人を目指すことに迷いがなかった理由
あいだに
 専門学校の話
第三章
・Thank youしか言えない奴がサンフランシスコに行ったってよ
第四章
・残金xx,xxx円からの開業はもはやドラマ
最終章
・ありがとう。割烹TAJIMAの2年間

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