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正体のない不安から抜け出したい私の話

不調をみつめる日


 先の記事でも書いた通り、泥々に精神を崩している。
 精神不調を訴える場所もあてもないため自分のなかに溜め込んで蠱毒の如く煮詰まる頃には強固な希死念慮が出来上がる。心と頭と体へ膜のように覆い被さり、浸透しきって剥がれない。
 友人へ気軽に話を振れる程度を越してしまっている。そのような自覚がある。自分のことを話せる友はいるが、それでも相手の調子を損ねたくないという気遣いをこの瀬戸際でも発揮して自分から話しかけることができない。
 友はいる。それでも手を伸ばせない。
 この孤独と同じだけ、おちてきてほしいと願っている訳じゃない。
 苦しみを相手に分けようとしてはいけない。
 それだけはしてはいけない。


 気晴らしに隣町の喫茶へ出向いて描いた作品のキャプションを制作したり(これがなかなかに捗る。自宅にあるはずの創作意欲が何故か隣町の喫茶においてある)、自分に起きた良いこと・悲しいこと・今月あった予定を感じた気持ちとともに日記兼手帳へ書きつけたり(これがなかなかに以下略)、己の暮らしを見つめる時間をとることにした。自分の暮らしを見つめることをこうしてルーティンワークにすることで、気持ちの浮き沈みの沈みの部分を少しずつ俯瞰して見ることができるようになってきた。外は寒くなってきたな、窓越しに駅前を足早に過ぎる人々を見つめる。頼んだラテを飲んでぬくぬくと暖まる。
 これも不思議、というか自分の生活になかった事柄なので今更効果を実感しているのだが、飲み物やスープで体の中から温まると気分が多少落ち着いてくる。大事な人たちへ労いをかけるときには必ず「ポカポカでありますように」と一言添えるようにしている。心を落ち着かせないことには、辛さや苦しみ、疲労に立ち向かうことはできない。どうか心から温まってほしい。
 などと書くだけでもポカポカである。これは良い習慣にしたい。

抑鬱状態からの回復と心の変化


 ここまで抑鬱状態が落ち込んでいる理由を考えてみた。

・外部との接触機会の著しい減少
・自分の状態を言語化する余裕がない
・達成できたことを褒める習慣がない

・外部との接触機会の著しい減少
 これは言わずもがな、新型コロナウイルス感染症による予防対策のため、極力移動や外出を抑えてきたからだ。会う約束をしていた友人や誘ってくれた友人たちと会うことも、新しい状況打開のための話をすることもできない。これでは鬱屈としてしまうのも無理はない。

・自分の状態を言語化する余裕がない
 これは私の特性のひとつである「客観視が苦手」ということが大きく絡んでくる。(自と他の境界が曖昧なことも大きいのだけど)状況をみる力はなくもないのに、自分を中心に考えると、正しい、つまり客観的な、状況判断ができなくなる。更に抑鬱の症状のひとつで、自分で自分のことが判断ができない。自己判断の能力値が地を這うほど低い。自分の要望や、気持ちや、状況がわからない。自分を生きる上で必要な自己肯定や判断ができていない。

・達成できたことを褒める習慣がない
 自分を褒めるってなんですかァ〜〜〜〜〜〜…………………………………………
わからん。一個もわからん。仕事も創作活動も、しぬことを決意するほどの大きな失敗なくこなしている、けれど自分を褒めたことがない。できたことに目を向けるよりもできなかったことを悔やむ日の方が圧倒的に多い。今日だってあのお客さまにもっといい接客ができたんじゃないかと失敗を後悔している。ただでさえ特性に凹凸のある自分ができることなんて限られているのに、できないことばかり見つけて悔やんでいる。

 ここまで書き付けてみると、浮かび上がってくる。


 普通にじゅうぶん頑張っているよね……?
 この世にたったひとりしかいない自分、大切にできていないのでは……???



 それってヤダな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!
 自分、自分をどうにかできるの、自分しかいないのぞ〜〜〜〜〜〜〜!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?

 もうじゅうぶん、ひとに親切にして、優しくあろうとして、気を回して、そのおかげで気を揉んで、苦しんで、頑張ってやっていますよね!!?? 元気に健やかに暮らすために、自意識を改善していけるところ、まだまだあるよ!! 健常な社会人と生活能力の低い自分の間に、自分で勝手に線引きしてその差異に苦しんでいるだけだ。そう気づいてからは敢えて街の喫茶に出没しては周囲に溶け込むように心がけた。これができると、たとえ大した内容の滞在でなくても、読書をした、noteをまとめた、手帳に書きつけた、自分の状況を洗い出してみた、等普段の暮らしの中では意識的にしにくいこと(鬱傾向にあると何事にも興味関心が向かなくなる)に手をつけられるので自己肯定感が上がりやすい。自己肯定というのはなにも自分を褒め称えることではなくて、できたこと、やり遂げたことを糧に自分の存在を自分に認めること、たったそれだけでいいのだ。少なくとも自分はそのようにして先月の不調を乗り切った。

 十二月は師走というだけあって本当に忙しい。やらなければならないことをリストアップして優先順位をつけようとした(えらい!)ところ、全ての予定を優先的にこなさねばならず白目をむきかけている。

 それでも、ひとつリストアップする毎に、ひとつ予定をこなした。
 そうすると、「年末までなんとかなるんじゃないか?」という微かな光が見えてきた。この光は自分が引き寄せた明るい希望だ。大袈裟に思われるかもしれないけれど、これは確かに自分が行動した結果獲得した領域だ。
 そうして心の(ほんの僅かな)余裕が生まれたから、出掛ける予定を二つ立てた。そのうちひとつはひとに会う予定だ。ひとに会えるまで病状が回復している。寧ろひとと会う予定を立てることで自分を立て直していく心算だ。店への予約も、お土産も既に考えた。喜んでもらえるといいな。

 こうした自分が喜ぶ予定を組み込む頭と心の余裕を作ったのは、他でもない自分だ。これはきっといっぱい褒めていいと思う。

 えら〜い!!(*`ω´*)!! フフ!

おわりに

 自分の記録を書きつけるようにしてから気分が変わり始めている。
 具体的に言えば、不調を見つめて、原因を理解し、改善できることはあるか、と心が求め始めている。一時の落ち込みから比べたら本当に、本当に大きな変化だ。自分の心の変化に気付けている。
 年末年始と仕事が忙しいことは確定している。大晦日も年始も出勤だ。気持ちが落ち着くことはきっとない。それでも合間にできる少しの時間に自分を適切に労うことができたなら、きっとやっていけるように思う。

 このnoteを読んでいる方は、おそらく自分の不調に気付いているか、余程優しい御仁であると思います。ここまで目を通して頂きありがとうございます。どうか優しい貴方に望む形の幸せが降り注ぎますように。


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