世間の土俵を降りたい、という感覚
土俵から降りたい、と思う。
土俵というのは、「世間一般の価値観」や「常識」みたいなもの。
世間がしているカテゴリ分け、ランク付け、評価。あるものがいいとされ、そこを目指すことが当たり前とされていること。
そういう世間の物差しで自分を評価されていることが怖い。いや、本当に怖いのは、そう言いながらもその物差しを手放せない自意識だと思う。
世間一般の土俵で闘うことに疲れているし、闘う意味に疑問も抱いている。おそらく、土俵を降りたら色々楽になるだろうなとも思う。
でも、今度は「あぁ、この人は土俵を降りた人ね」とジャッジされるのが怖い。本当に厄介だ。
また、「土俵を降りた人ね」と評価されることを恐れているということは、自分自身が心のどこかで「土俵を降りた人」を羨ましいと思いながらも、ある部分では下に見てしまっている自分がいることにも気づく。そんな自分が心底嫌にもなる。
嫌なループだ。
この土俵の苦しみは、SNSの影響も大きいと思う。自分と他人を延々と比べて相対化してしまう。「自分は今土俵のどの位置にいて、どう見られているのか」を気にして、どっと疲れる。そして「あぁ、すべての土俵から降りたい」となる。
にしても、この土俵は一体なんなんだろう。誰が作って、誰が評価してるんだろう。
疲れてしまったよ。
私は自分に自信がない。
だから、土俵から降りる決心もつかない。
でも、「土俵が土俵が」と常に世間や他人の目、評価を気にするのも嫌だ。
自分に自信をつけたい。フラットに「ただ自分であること」ができるようになりたい。常にそうあるのは難しくても、そうした時間を今よりいくらか持てたら、土俵の上にいようがどこにいようが、生きやすそうだ。きっと土俵は関係なくなる。
ここまで来て、土俵をネガティブに表現してしまったけれど、土俵は「社会性」でもある。生まれてきてしまった以上は、おそらく土俵の上にはある程度いることも必要だと思う。かといってずっといる必要もない。自由に行き来できる柔軟さと、土俵に上がっても闘わないでいられる強さ、それが必要なんだと思う。
土俵の上にいながら闘わない、必要に応じて土俵を行き来する。それが今の自分の理想。そんな人になりたいなぁ。
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