映画「シン・仮面ライダー」について
僕は子どもの頃、手塚治虫はまだ現役の漫画家として活躍中であった。当時、手塚の系譜に連なる漫画家たち、たとえば藤子不二雄はまだコンビを解消していなかったし、石森章太郎は「石ノ森」と改称する前であった。手塚は元号が平成に変わった直後に亡くなっているので、まだ昭和だった時代の話である。
この中で、僕がいちばん好きだったのは、石森章太郎であった。シャープで繊細なタッチの絵が子ども心にもカッコよかった。「サイボーグ009」、「仮面ライダー」、「人造人間キカイダー」、「幻魔大戦」等々、どれも好きであった。
手塚にも石森にも言えることであるが、とにかく多作であり、ジャンルもきわめて広範囲にわたる。現役時代の多忙ぶりは伝説的でさえある。創作活動の全盛期は文字どおり寝る暇もなかったであろう。二人そろって60歳そこそこの若さで亡くなったのは、常軌を逸した激務と無関係ではなかったと思う。
で、「仮面ライダー」の話になるのだが、僕は「ぼくらマガジン」に連載されていた当時から原作漫画を読んでいた。当時は小学生であった。
「原作」と書いたが、厳密にはちょっと違う。いわゆる「メディアミックス」のハシリのようなもので、子ども向けテレビ番組の企画に石森が参画し、基本設定とかキャラクターデザインを担当した後、番組放映と並行するような格好で少年誌で漫画連載をしている。したがってテレビ番組と似ている部分もあるが、中盤以降はストーリー展開もかなり異なっている。が、ここでは便宜的に石森自身が描いた漫画版について原作漫画と呼ぶことにする。
テレビ番組の初期(本郷ライダーのところ、第13話まで)、および原作漫画に共通することであるが、従来のヒーローものと比べると、かなり全体として暗い。仮面ライダーのキャラクターデザインも子ども向け番組のヒーローとしてはグロテスクであり、いかにもショッカーに改造された他の「怪人」たちと同類という感じがする。現在のライダーシリーズに連なるあっけらかんとしたヒーローものに変容していくのは、一文字ライダーが登場したタイミングからである(第14話以降)。
一文字ライダー登場は、本郷猛役の藤岡弘がバイク事故で撮影続行できなくなったことが直接の原因とされている。当時、藤岡はスタントやスーツアクターも兼務していたのだ。一文字ライダーに変更以降、怪奇テイストで暗かった初期の雰囲気が払拭されたこともあって、視聴率的にも人気番組になっていく。「風圧云々」と理屈が多くて子どもにはわかりにくかった変身シーンが、「変身ポーズ」に変更されたことも、その後のブームに火をつけた一因と言われている。一説によると、ここら辺のリニューアル作業には、経済人類学者の栗本慎一郎が関与していたという話を聞いたことがある。真偽のほどは知らない。
番組的には「災い転じて福となす」ということになるのだろうが、暗くて怪奇でおどろおどろしい初期のテイストを好んでいた僕としては、わかりやすいヒーローものに変貌した一文字ライダー以降にはすっかり興味が失せてしまった。当時からアマノジャクで変わり者の子どもだったのである。
それでも、石森の漫画連載の方は引き続き愛読していた。「ぼくらマガジン」は短期間で廃刊となり、連載は「少年マガジン」に引き継がれた。原作漫画の方は、環境破壊や、国民総背番号制といった社会的テーマが取り扱われており、いま読み返しても、かなり意欲的な作品である。たぶん少年漫画としては少し攻めすぎたのかもしれない。最後の方は打ち切りに近いような唐突な終わり方になってしまっている。メディアミックスでスタートした作品とはいえ、自分なりのこだわりを貫き通したあたりに、石森の漫画家としての矜持が感じられる。
で、ようやく本題である「シン・仮面ライダー」の話に辿り着く。
映画「シン・仮面ライダー」は、初期のテレビ版「仮面ライダー」や、石森の原作漫画の雰囲気を色濃く踏襲している。庵野秀明は僕とほぼ同世代である。彼もきっと暗くて怪奇でおどろおどろしい初期のテイストや、原作漫画が好きだったのであろう。細かな話は省略するが、随所に「こだわり」であったり、「愛」を感じさせる。
だが、作品全体を通した感想となると、基本的にはあまり好きにはなれなかった。そもそも、プラーナ、ハビタット、パリハライズ等々、何やら後付けの説明がくどいし、冗長である。そういう意味では「改悪」である。
「シン」シリーズ、あるいは「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」なる4作品(「シン・ゴジラ」、「シン・ウルトラマン」、「シン・仮面ライダー」、それに「シン・エヴァンゲリオン劇場版」)のうち、自身の作品である「シン・エヴァ」を除くと、残り3作品いずれも一種の「二次創作」であり、見方を変えるならば、既に古典的な位置づけにある旧作品の「読み替え」作業と考えることもできる。
庵野としては、単なる旧作品のリメイクにとどまることを潔しとせず、クリエイターとしての自分なりのテイストを付加したいと考えたのであろうし、そのため、「ゴジラ」、「ウルトラマン」、「仮面ライダー」のいずれにおいても、あれこれと後講釈的な説明や解説を用いて、新たな世界観を示そうとしたのであろうが、残念ながら、いずれも成功しているとは言い難い。
オペラの新演出においても、大胆な「読み替え」が行われることが多々あるが、庵野の「シン」シリーズでの試みは、それらと少し似ているかもしれない。
オペラにおける「読み替え」の有名な例の1つとしては、1976年のバイロイト音楽祭における「ニーベルングの指輪」のパトリス・シェローによる新演出がある。神話の世界ではなく、19世紀半ばから20世紀初頭の産業革命期に舞台を移し、資本家と労働者との階級闘争みたいな物語に置き換えたことは、当時、大きな論争を巻き起こした。
他の例としては、やはりバイロイト音楽祭の話であるが、ワーグナーの曾孫による「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の新演出(07年-11年)で、舞台を現代の美術学校に置き換え、マイスタージンガーたちを学校の教師、ダヴィットら徒弟たちを生徒にした上で、マイスターたちの全体主義賛美を批判するような内容への読み替えを行なった時も、かなり大きな騒ぎになったと記憶している。
オペラの新演出における大胆な「読み替え」全般に言えることは、「そういう解釈も成立するかも」といった具合に、新たな視点を提供することは可能であったとしても、所詮、オリジナルの世界観を超えることはできないということである。オペラの名作とされる演目は繰り返し上演されているので、多少の「味変」も、たまには必要であろう。しかしながら多くの場合、最終的にはオリジナルの価値を再認識させられることになる。それに、もし仮に徹底的な換骨奪胎を行なったとすれば、もはや、それはよく似た別の作品になってしまうのだろうが、庵野の「読み替え」はそこまで踏み込んだものではない。
いずれにせよ、「シン」は、残念ながら、「新」にも「真」にもなれてはおらず、所詮は「二次創作」あるいは「読み替え」といった作品であり、改めてオリジナルの真価を再認識させてくれただけというのが、僕の「シン・仮面ライダー」評である。
岡田斗司夫は、「シン」シリーズを評して、「庵野秀明の幸せな老後シリーズ」と呼んでいたが、たしかに先ほども書いたとおり、趣味的な「こだわり」や「愛」がてんこ盛りである。「オタク」庵野としては、楽しくて仕方がない撮影だったであろう。冒頭のクモオーグの箇所はまるまるTV放映されていたので、観た人も多かったと思うが、オリジナル放送の第1作の戦闘シーンのオマージュというか、カット割りや殺陣まで意図的に酷似させている。
もちろん、現代の特撮技術を駆使して撮影しているので、昔はちっとも痛そうではなかったライダーキックの迫力も増しているし、僕のように初期の仮面ライダーが好きな人間には楽しめる箇所は多い。だが、オリジナルを知らない人間が本作単体だけで純然と楽しむには限界があるように思える。庵野のこだわり抜いた細部も、わかる人間にしかわからないという意味では、所詮は「楽屋落ち」である。あるいは、オリジナルを「本歌」とすれば、本作は「返歌」という位置づけかもしれない。
最近、「リメイク」や「リブート」と言われるコンテンツが増えているのは、独創的なオリジナルのコンテンツを創り出す能力を持った優秀なクリエイターが枯渇してきていることと関係があるのかもしれない。漫画作品のドラマ化が増えているのも同様である。オリジナルの面白い脚本を書けるシナリオライターが減ってきているのではないだろうか。
そういったことを考えると、半世紀以上前にオリジナルの「仮面ライダー」を考え出した石森のクリエイターとしてのパワーがいかに圧倒的であったかを改めて思い知らされることになる。ありとあらゆるジャンルの作品を次々と量産していながら、その多くの作品がいまだに陳腐化せずに読み継がれるだけの高いクオリティを保っている点に関しては、師の手塚に勝るとも劣らないと言わざる得ない。もちろん手塚もすごいのだが。
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