書き言葉について
高校の国語の授業で、古文とか漢文を教えるのは無意味であるとか、大学受験から古文・漢文は排除すべきだといった議論は、昔から盛んである。
古文・漢文不要論者の人たちの主張としては、日常生活で使わないものに時間をかけるくらいならば、代わりにもっと実用的な知識を教えるべきだということなのであろう。
たしかに、多くの人にとって、日常生活で、古文・漢文の知識を使うことはあまりない。でも、だから教える必要はないとも思わない。もちろん、高校全入に近い今の日本で、全高校生が古文・漢文を学ぶ必要もない。もう少し、対象者を限定すれば良いのだ。
日本人にとっての古文・漢文というのは、欧米人にとってのギリシア語・ラテン語みたいなものであろう。ドイツのギムナジウムでは、ギリシア語・ラテン語が今でも重要な科目であると聞いたことがある。ドイツの大学進学率は、日本よりもかなり低いから、大学進学のための予備課程であるギムナジウムで学ぶ生徒というのは、日本の高校生に比べたら、かなりのエリートということになる。
ヨーロッパにおいて、どうして、ギリシア語・ラテン語を教えているかというと、古典的な文献を読むためには必須だからである。ヨーロッパの各言語の源流は、ギリシア語・ラテン語である。学術用語の多くは、これらの言語由来とされている。つまり、ギリシア語・ラテン語を学ばないと、古典を読んで、伝統的文化を継承することが困難になる。だからこそ、少なくともエリートというか、将来、社会の指導者になるような人たちは、これらの言語をしっかりと学ぶ必要がある。
実際のところ、ヨーロッパでは、一旦は、古典的な知の遺産が途絶えかけてた歴史がある。キリスト教が古代ローマ帝国の国教になった影響で、西ヨーロッパ圏では古代ローマ・ギリシア文化の否定と徹底的な破壊が行われた。それでも、ギリシア語で書かれた文献は、アラビア語に翻訳されていたおかげでイスラム圏で継承されて、それがルネサンス期になってラテン語に翻訳されたことで、再び継承することが可能となったのだ。
日本で古文・漢文が教えられてきたのも、欧米でギリシア語・ラテン語が教えられているのと同じような理由であるが、高校全入で大学進学率も5割を超える現代の日本では、高校生も大学生ももはやエリートではないし、そういう意味では、対象者を思い切って絞り込んでも何ら差支えはない。
ただし、先ほどのヨーロッパの例を持ち出すまでもなく、知の遺産が継承されるためには、過去の文献を読むことが不可欠である。読める人間がいなくなるということは、知の遺産を放棄することを意味する。
古文・漢文の素養がなくて、平安時代に書かれた『源氏物語』とか『枕草子』が読めなくても、実生活で別に困ることはないのだろうが、戦前の文語体で書かれた法律の条文とか、公文書を読めないとなると、法律や政治の勉強をする場合に困ることがあるかもしれない。
明治期以降、言文一致運動等の影響もあり、現代の日本の書き言葉は、わりと話し言葉に近いものとなっているが、それでも同じではない。ましてや、戦中戦前の時期に書かれた文章、特に法律とか公文書などは、だいたいが漢文訓読体で書かれている。つまり、古文・漢文の素養がないと、わずか80年ほど昔に書かれた文章でさえも、ちゃんと読むのが難しくなる。
明治期以前の文献ともなれば、なおさらである。江戸時代以前の公文書となると、基本的にすべて漢文である。だから、武士階級は幼少期の四書五経の素読から学問をスタートしたのである。
それでも、日本の場合、細々とではあるが、古文・漢文教育を通じて、一定数の人たちは、昔の文献も読み解くことができるが、韓国とか中国の場合、状況はもっと深刻であろう。
隣国のハングル文字というのは、日本語でたとえるならば、平仮名かカタカナみたいなものであり、表意文字である。ハングル自体は、15世紀に、李氏朝鮮第4代王の世宗が創設したとされているが、貴族階級である両班の抵抗もあって、なかなか広まらなかったという。知識階級である両班は、漢字を使いこなしていたからである。日本統治期になって、民衆の識字率のあまりの低さを打開するための手段として、ハングルが急速に普及したのだという。その結果、現代の韓国人の多くは、漢字があまり読めないのだそうである。
想像してもらいたいのだが、もし現代の日本において、本も新聞も、ぜんぶ平仮名で書かれてあったら、どうなるであろうか。不便極まりないはずである。漢字が使える場合に得られる情報量と、平仮名しか使えない場合の情報量とでは、同じ分量の文字数であっても、その情報量たるや大きな格差が生じる。また、平仮名しか使えない場合、同音異義語のどれを指しているのか識別するのは容易ではない。
ハングルしか使えず、ほとんどの国民にとっては漢字が読みこなせない隣国というのは、古文・漢文教育を疎かにした場合の、未来の日本を予感させるような気がする。
中国だって似たようなものである。現代の中国で使われている簡体字という簡略化された文字は、中国共産党によって作られたものである。記号のように省略された2,235字の整理集約された漢字(というか記号)だけ覚えれば良いのだから、便利ではあるが、簡体字しか教えられていない人たちにとって、過去の文献を読みこなすことは困難を伴う。また、台湾、香港、マカオなどでは、簡体字ではなく、繁体字が用いられているので、大陸の住人とこれらの地域の住人とのコミュニケーションを難しくしている原因の1つにもなっている。
いろいろと書き連ねたが、書き言葉というのは、文化や知的遺産を後世に伝えるための手段である。為政者の何らかの意図(たとえば、都合の悪いものは、一般大衆には読ませないといった意図)とか、気まぐれな思いつきによって、途絶えてしまうことがあれば、貴重なコンテンツが失われてしまう可能性がある。昔のカセットテープに録音した音楽とか、VHSビデオに録画したテレビ番組とかが残されていたとしても、それらを再生する機材がなければ、中身を確かめようがないのと同じである。
したがって、たとえ細々とではあったとしても、古文・漢文教育を通じて、一定数の人たちは、昔の文献も読み解くことができるようになっている日本は、韓国や中国に比べれば、まだ救いがありそうな気がするし、そうした伝統を軽々に絶やすべきではないと思うのだ。
もちろん、高校・大学に入学する全員にそれを課すのは現実的ではないというのも理解できる。したがって、ある程度は対象者を絞り込んでも構わない。所詮は、平均よりも半分以下の学力しかない人たちに、古文・漢文を学ばせようというのは現実的ではないのだ。それよりも、まずは正しい日本語の読み書きをちゃんと習得させるべきであろう。
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