薄くて半透明の膜をはるように

一時期仕事が忙しすぎて本や漫画を買って読む余裕がなかった反動で、最近は休憩中にすら書店に漫画や小説を買いに行っては残りの時間で読み、数日後読み終わったらまた買いに行くような日々だ。

お昼どきの人がまばらなオフィス、毎日の通勤電車の中、どこかへ意識を飛ばしたい私はおもむろに本を手に取る。

電車の中やオフィスの休憩スペースで本を読むその時、私は人目も自分の置かれた環境も何もかもを忘れて物語に没頭することができる。
どこにいても好きな世界へ行けるというのは、とても自由なことだ。

活字から得られる情報をフルカラーで再生するためには、全ての外界からの感覚をシャットアウトして自分の脳内に籠らなければならない。もはやこれは「読書」という儀式に近い。

また本を開き物語の世界に没頭している間は、周囲からそっとしておいてもらえるからとても良い。これがスマホで電子書籍を読んでいる場合だと、手持ち無沙汰に見えるのかもしれない。
そういった意味でも、本は薄くて半透明の膜を張るように、私を外から守ってくれる大切なアイテムのひとつなのだ。

最近は休日も家で本を読む時間が増えた。
特に没頭してやるゲームがなかったり、平日読んでいる本の続きが気になったりすると自室の座椅子に腰掛け、心地よい温度に保たれた部屋で本を読む。
好きな物ばかりに囲まれて本を読む時間も、なかなか良い休日の過ごし方かと思う。

ただやはり、一番本を開く回数が多いのはオフィスの休憩時間だろう。社内のオープンスペースにはいくつかの談笑の輪があり、その輪と輪の間にぽつんと自分が1人でいることも多い。

その中で気付いたのが、私は田舎の学校の教室で誰とも喋らず、自ら周りをシャットアウトしていたあの時から本質的に変わっていないのではないかということだ。
つまり、本を手に取り読むことで自分にバリアを張り、「私はここにいません」「私は別の世界にいます」、と他から逃れるように自分を守っているだけなのでは、とだんだん思えてきたのだ。

最近の自分にとっての読書と本の話を書きながら、結局気付けたのが集団の中でちょっとうまく馴染めない自分であった、という話だ。

読書は面白いし、紙の本は私にはなくてはならないアイテムだ。
ただ、それはアイテムであると同時にバリアという技でもあり、その内側にいる自分の本質は昔から変わっていなかったのだと思う。

2ヶ月ほど前からポチポチ書いては消し、書いては削りを繰り返してきたがやっと書き終えられそうだ。
読書と本のことばかり書いていたら何故か文章が終わらず、不思議に思っていた。

結局私は今でもずっと、教室の隅っこにいる。

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