口紅を捨ててみた
口紅は魔法だ。
鏡を見ながら口紅を塗っているあの時間が好きだ。オードリーヘップバーンになった気分。
んまんま、と上唇と下唇を合わせるあの仕草を母がやるたびに、私も早くそれやりたいと密かに願っていたものだ。
持っていた口紅3本ほど。唯一残してあった化粧道具だったかもしれない。途端に怖くなった。もう戻れないかもしれない。
「女らしく」いられる手段を自ら絶っていくのはこんなに怖かったのか。
社会のマナーではないかときっと誰かがまた言う。化粧は最低限でしょとみんながまた言う。
誰もそこに、自分の意思を持ち込むことは許されない。
やっと見えてきた自分らしさは、自分が背負ってきた理想とは正反対だった。
自分のことが気持ち悪かった。
なあわかるだろ、女に対して恋愛感情を抱けるなんて気持ち悪いよ。男に対して性的欲求が湧かないなんておかしいよ。
自分に対して大嘘をついた。社会のマナーという呪縛にうまく囚われた。みんなの目線だけを気にしていれば平気だと思っていた。
そうやって私は、逃げてきた。
だから口紅を捨ててみた。
理解されるとは思っていない。けれど、もう逃げないと決めた自分のこと、私は好きになれると思う。
化粧をした。髪を伸ばした。彼の好きなワンピースを着た。前髪を巻いて、そして口紅を塗った。
あの大好きだった自分とさようならをした。
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