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添削屋「ミサキさん」の考察|9|「『文章術のベストセラー100冊』のポイントを1冊にまとめてみた」を読んでみた⑨

|8|からつづく

先に、川端康成の「『耳で聞いて解る文章』とは、私の年来の祈りである」という言葉をご紹介しました。

では、実際の彼の文章を見てみましょう。

  国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。
 雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です。ご機嫌よろしゅうございます」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ」
「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな」
「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ」
「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するんで、村も焚出しがいそがしかったよ」
「駅長さん、ずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれど」
「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪をひいてね」
 駅長は宿舎の方へ手の明りを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか」
「いや」
「駅長さんもうお帰りですの?」
「私は怪我をして、医者に通ってるんだ」
「まあ。いけませんわ」
……

「雪国」

あまりに有名な「雪国」の冒頭シーンですが、あらためて鮮やかな切りだしだと思いました。
確かに、耳で聞いてよくわかる、くっきりと映像的に伝わるような文章ですね。それほど描写らしい描写もしていないのですが。

実は、高校生のとき読んでから、かなり久しぶりにまた読んだのですが、あ、すごいな、と思ったのは、読むと読んだことがあると思い出したんですね。
そのくらい、印象に残るシーンだと思います。

さらにもう少しあとの展開も面白いので引用しておきますね。

 もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女に引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。しかしそれは彼が心を遠くへやっていたからのことで、気がついてみればなんでもない、向側の座席の女が移ったのだった。……

同上

はじめの一文、226文字あります。
変った文章ですよね。
何だか、平安文学のような感じがしました。

では、次に大江健三郎さんの『芽むしり仔撃ち』から。

 夜更けに仲間の少年の二人が脱走したので、夜明けになっても僕らは出発しなかった。そして僕らは、夜のあいだに乾かなかった草色の硬い外套を淡い朝の陽に干したり、低い生垣の向うの舗道、その向う、無花果の数本の向うの代しゃ色の川を見たりして短い時間を過ごした。前日の猛々しい雨が舗道をひびわれさせ、その鋭く切れたひびのあいだを清冽な水が流れ、川は雨水とそれに融かされた雪、決壊した貯水池からの水で増水し、激しい音をたてて盛りあがり、犬や猫、それに鼠などの死骸をすばらしい早さで運び去って行った。

「芽むしり仔撃ち」

こちらが冒頭です。2文目は86文字、3分目は118文字あります。
これ以降も同じような長めの文章が続きますね。
大江健三郎は難解だとか悪文だとかいう人もいますが、実は私はわりと好きな文体です。

デビュー作「死者の奢り」より。

 死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴じみにくい独立感を持ち、おのおの自分の内部に向って凝縮しながら、しかし執拗に躰をすりつけあっている。彼らの躰は殆ど認めることができないほどかすかに浮腫を持ち、それが彼らの瞼を硬く閉じた顔を豊かにしている。揮発性の臭気が激しく立ちのぼり、閉ざされた部屋の空気を濃密にする。あらゆる音の響きは、粘つく空気にまといつかれて、重おもしくなり、量感に充ちる。

「死者の奢り」

確かにリズム感はないんですけど、独特の呼吸のようなものが感じられます。
そういえば、最近こういう感じの文章を書く人はあまりいないですね。

|10|につづく

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