見出し画像

老いて飲みたいのはどんなスープですか?(小原信治)

「Here」\「ゴースト・トロピック」

 たとえば、静かな森の木陰で古い書物を読み耽っている男の映像を想像して欲しい。男は名残惜しそうにページを捲る。しばらくして一旦本を閉じて立ち上がる。傍らのバスケットに入っていたミルに豆を入れて丁寧に曳く。ポットの熱い湯でコーヒーを淹れる。コーヒーが落ちている間、空を見上げる。雲が流れていく。草むらに寝そべってまた本の続きを読み始める。白い湯気とともにコーヒーがゆっくりと抽出されていく―――表層的にはその程度の変化しか見えない。何も起こらないし、どこへも行かない。そしてカメラは男が読んでいる本のタイトルや中身には決して踏み込まない。被写体がもっとも触れて欲しくない「聖域」だからだ。もしも男の頬を一筋の涙が伝うようなことがあってもカメラは無粋にその水源を捉えたりはしたりはしない。あえて視線を逸らすように木の幹で蠢く小さな命や木の葉の滴なんかに逃げたりする。

 それでも観客には男の内面で起きている「出会い」とそれによる「ささやかな変化」が見えている。それぞれの経験則で想像し、理解をし、共感している。満ち足りた気持ちになっている。

「Here」「ゴースト・トロピック」

 稚拙な表現で大変申し訳ないのだけれど、少なくともぼくにとってはそんなことを想起させられた映画だった―――などと勝手なことが書けるのも、この映画は百人が百通りの解釈をすることを許容してくれているように感じたからだ。だから映画を見たあなたがこれを読んで「えー、全然違うよ。そんな映画じゃないし」と思ってくれても一向に構わない。構わないからこそ同じ映画を見た藤村くんとのトークもどこか噛み合っているようで噛み合っていないような、同じ物体を別々の側面から見て話しているような印象になっていたんだと思う。でも、それでいいんだと思う。少なくともこういう映画に関しては。

若い頃はマクドナルドのハンバーガーとコーラが大好きだった。

「(過度な)刺激とか必要ないんじゃないかな映画に」と藤村くんは言った(と書くから読み手に誤解を生む「発言の切り取り」になってしまうんだな。反省反省。批判も揚げ足を取るような意図も一切ありません。どういう流れでこの発言をしているかはリンク先の放送音源をお聴き下さい)。疫病や戦争、災害が続く現実に辟易しているからこそ映画という非日常に過度な刺激はいらないという言葉にも思えたし、苦み走った笑いの向こうに人生の艱難辛苦が見え隠れしているようにも感じられた。あるいは年齢を重ねたことで好みが変化したことを伝えたかったのかもしれないけれど真相は分からない。でも、そのすべてにぼく自身も共鳴していたことだけは確かだ。

 これも加齢によるものなのだろうか。若い頃はマクドナルドのハンバーガーやコーラが大好きだったように刺激の強いコンテンツを求めていた。最初に胸を打たれたのが刺激の強いものだったことも影響しているのだろうか。多くの人が「初恋の人」と似たタイプの異性を潜在的に探し求めてしまうと言われているのと同じように。

ここから先は

3,987字 / 3画像

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?